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2018年09月19日

ビールとソーダと兵隊

ビールとソーダと兵隊
人間サマの飲み物を飲むエテ公のフレンズ

こんにちは!
突然ですが、皆さんお酒やジュースお好きでしょうか?僕は天地開闢以来の下戸と自負しておりまして、お酒はてんでダメなのですが、重度の甘味依存症なので清涼飲料水は大好きです。
つい先日、豪華二本立てで「GHOST IN THE SHELL」と「キングコング」を観てきました。劇場で観るときはポップコーンとジュース、これは欠かせません。ファンタグレープとスプライトを立て続けに飲み干し膀胱が破裂寸前になりました。
いや~二本とも楽しく観られました。スカーレット・ヨハンソンのビジュアルは草薙素子ピッタリ!ウェットな雰囲気の攻殻もなかなかですっ
「キングコング」はもう全編テンションMAX...嘘つきました。巨大蜘蛛のシーンだけは目を細めてました(蜘蛛恐怖症なんです)。僕の大好きなBlack SabbathのParanoidからの夕日の陽炎をバックに仁王立ちのコング、ヒューイヘリコプターの編隊!個人的にはURC-10が一瞬出てきたのが萌えポイントでした...

...という訳で、今回の記事テーマは「メスゴリラこと草薙素子少佐(昔は一佐と言った)はキングコングの夢を見るか」...ではなく「ベトナム戦争中に兵士達の喉を潤したビール&ビバレッジ」です。

※こんなふうにな書き出しで記事を書き始めて1年半、途中いろいろあってほぼ放置していましたが、ようやく完成したので投稿です。
ビールとソーダと兵隊
複雑な気分だ

缶入り飲料のおこり

日本は自動販売機大国です。ちょっとした街にいけば、そこらじゅうに自販機が設置され、二台、三台と並んでいる光景も特別なものではありません。その認識は海外でも共通のようで、googleでvending machineと検索すると、サジェストのトップにjapanの文字が現れるほどです。過剰とも思われる物質主義の是非はともかく、夏場、炎天下に冷たい清涼飲料水、凍える冬に温かいコーヒーを手軽に飲むことができるのは素直に幸せと感じます。

自販機やコンビニエンスストアのショーケース、ペットボトルにスペースを狭められつつも「缶」が並んでいます。持ち運びには不便ですが熱伝導性の高さゆえ、ダイレクトに手に伝わる温度が季節感を感じさせてくれますし、炭酸飲料などは開栓時の「プシュッ、カコッ」が一時の息抜きの合図にも聞こえます(笑)。

そんな(?)缶入り飲料ですが、歴史を辿ると実用化されたのは20世紀になってからで、その始まりはビール缶でした。1909年アメリカ合衆国モンタナ州の醸造会社がアメリカン・カン・カンパニー(製缶会社)に缶入りビールの開発を打診したのがスタート地点となります。残念ながら、この試みは後述する理由により出鼻を挫かれてしまいます。
1914年に始まった第一次世界大戦にアメリカが参戦を決定します(1917年4月6日にドイツに宣戦布告)。これにより戦時物資節約の一環として、穀物使用の制限が掛けられることになります。ビールも麦芽を使用するため、多くの州がビールの製造を禁止し減産方向に転じます。
アメリカは建国の祖となったピルグリム・ファーザーズが清教徒(ピューリタン)であり、プロテスタントの比率が高く、アルコールに対して否定的な意見も多く見られました。実際に禁酒運動の旗手となったのが、プロテスタントの一派であるメソディストといわれています。
1906年には、ASL(アンチサロンリーグ)が州単位での禁酒運度を開始し、不道徳行為、家庭内暴力などはアルコールの弊害として女性運動家も旺盛に活動し、デモ、スピーチ、時には酒場への破壊活動なども各地で行われました。
1919年1月16日、合衆国憲法修正第18条(After one year from the ratification of this article the manufacture, sale, or transportation of intoxicating liquors within, the importation thereof into, or the exportation thereof from the United States and all the territory subject to the jurisdiction thereof for beverage purposes is hereby prohibited.=本条の批准から1年後より、合衆国及び合衆国が管轄する全ての領土領域に於ける、製造、販売、輸出入を目的とした、酩酊状態を引き起こすアルコールを含む飲料のこれを禁止する。)が成立し、36の州が批准しますが、それ以前、1916年の時点で多くの州議会はアルコールの禁止を制定しており、合衆国48州のうち28州が酒場および醸造会社への種類の提供、製造の制限を課していました。
そして約9ヶ月後の1919年10月28日、一度は大統領により拒否された、ボステッド法が議会により再可決されます。これが有名な禁酒法で、正確には"国家"禁酒法(National Prohibition Act)といいます。つまり、それまで州単位で行われていた酒類への規制が、国によって実行されることになったということです。国家禁酒法が規制する「酩酊状態を引き起こすアルコール飲料」はアルコール0.5%という厳しいもので、ライトビールやライトワインさえ違法になりました(家庭内での混成酒、ワイン醸造など一部は認められた)。
禁酒法は、キリスト教プロテスタント、南部の黒人とフェミニスト、KKK(白人至上主義者)、第一次世界大戦によるドイツへの悪感情(米国にはドイツ系の大手ビールメーカーが多数存在していた。)、酒類以外の飲料(ビバレッジ=清涼飲料水)メーカー、禁酒法支持者の票を取り入れたい政治家などなど...様々な思惑によって支持されました。法案を支持した市井の人々、熱心な政治家は恐らく、純粋にアルコールが持つ負の側面を社会から取り除こうと試みた、当時革新的な人達であり、確信犯だったのだと思います。しかしながら禁酒法がもたらしたのは、モグリの違法酒場、マフィアやギャングによる密輸密売、それに伴う抗争事件、法執行機関への賄賂、脅迫など狂乱狂騒の20年代でした。
禁酒法は後に「高貴な実験」と言われるようになります。壮大な社会実験と笑いものにするのは簡単ですが、似たような失敗は現代のどんな国でも起こりうる事だと思います。秩序を保つ法は重要なものですが、何を何処までどの様に縛るのか、それが人の生活や文化に深く関わる事案ならば一層の慎重さが求められなければなりません。

ビールとソーダと兵隊
1920~30年代初頭、第一次世界大戦参戦による大戦景気で空前の好況に沸いたアメリカ。29年の世界大恐慌から第二次世界大戦へと進んでいく。19世紀の残渣を掻き消すように、舗装道路を自動車が走り、摩天楼がメトロポリスを形成する。華やかなりし時代はマフィアやギャングの時代でもあった。禁酒法が、かえって彼らを肥大化させてしまったのは確かだ。映画や小説の格好の題材でもある。僕のオススメ映画は「アンタッチャブル(The Untouchables)」。

禁酒法によりアメリカの酒造メーカーは大打撃を受けましたが、缶入り飲料への挑戦は細々と続けられていました。1928年頃、アンハイザー・ブッシュ、シュリッツ、パブストが実験的にニアビール(アルコール度数0.5%以下。アメリカではノンアルコールビールに分類される)の缶封入を試みました。いずれも世界的なビールメーカーで、現在シュリッツ社はなくなりパブスト社がその権利を有していますが、1950年代までは世界のトップセラーでした。アンハイザーのバドワイザー、パブストのブルーリボンなどは知っている人も多いのではないでしょうか?
1933年4月7日、法執行機関の腐敗や非合法組織の拡大などの理由により、かねてから批判が高まっていた修正第18条への改正案が施行されます。これによりライトビール(アルコール度数3・2%)、ライトワイン(4%)が解禁されます。これを受けてクルーガー醸造会社がアメリカン・カン・カンパニーの協力を得て、1933年11月にアルコール度数3.2%の缶ビールのトライアルを開始します。このとき試作された缶ビールは2,000缶だったとされています。
そして1933年12月5日、合衆国憲法修正21条が承認され、約14年間に及ぶ国家禁酒法は撤廃になります。修正21条は、禁酒法の撤廃は各州の判断に任せるという内容でしたが、多くの州がこれに批准し、アメリカのアルコール製造、ひいては缶ビールの発展に拍車をかけることとなりました。

クルーガー醸造会社は1935年1月24日、バージニア州リッチモンドにて缶ビールのテスト販売を開始しました。クルーガーは低温殺菌技術とブリキ缶とエールビールの反応による味の劣化を解決できませんでしたが、市場における一旦の成功を収めます。このとき販売されたクルーガーのブランドは二つで、クルーガーズ・ファイネスト・ビール、クルーガーズ・クリーム・エールでした。史上初の市販量産缶ビールとされています。

ビールとソーダと兵隊
史上初の市販缶ビール二種。

缶詰食品の歴史は19世紀初頭より始まりましたが、ビール缶やソーダ缶という新たな試みに付き纏った問題は、炭酸ガスによる高圧への対処と、強い酸性のため缶の成分(当時の缶はスチールやブリキが主な材料で、今日主流のアルミ缶の登場はずっと先のことです)が溶け出し内容物の風味を損ねるためでした。この問題は後述する、プラスチックやワックスなどのインナコーティングの開発により解決されました。
世界のビール製造会社はクルーガーの成功をうけ、もし、クルーガーが上記の問題、とりわけ味の劣化問題を解決した暁には、巨大な宣伝効果を手にするだけでなく、それまでガラス瓶にかけてきた費用と人手を缶ビールに集中させることができると考えました。業界では熾烈な開発競争が始まりました。

その頃イギリスでは

南ウェールズ、カーマーゼンシャー州ラネリーのフェリンフォエル醸造所は小さな会社でしたが、ブリキ工業のエキスパートでもありました。また、南ウェールズ自体が19~20世紀初頭にかけて、ブリキ生産の一大拠点であり、1890年代初頭には世界シェアの80%を握っていました。
フェリンフォエルは、そのブリキ加工技術をもとに、缶の内側をワックスでコーティングすることにより、ビールと金属の反応を防ぐ方法を開発します。このことに関して、1935年12月3日、南ウェールズの地方紙「ラネリー・アンド・カントリーガーディアン」誌が「缶入りビール現る」「フェリンフォエル工場における画期的加工処理」「ブリキ板工業界に新たな希望」と好意的に報じています。
ワックスによる内部皮膜は涼しい地域では有効でしたが、温帯地域では溶け出してしまい飲料の風味を損なわせてしまう問題がありましたが、缶飲料はその利便性から急速に広まっていきました。この問題は第二次世界大戦後、合成樹脂による皮膜の開発により解決されます。

第二次世界大戦中、フェリンフォエルはイギリス軍への主要な缶ビール供給元でした。10オンス(283.5ml)ブリキ缶は半パイント(236.5ml)のビール瓶と容量はほぼ変わらず、ガラス瓶に比べ軽く、コンパクトで他の補給物資ためのスペースをより確保することができました。缶ビールはボール箱に24個入りで梱包されました。
当時の新聞に、缶ビールは瓶ビールに比べ破損の危険も少なく、これまで大量の瓶の梱包をしてきた女工達にもスムーズに受け入れられ、仕事の効率が上がったとの評が掲載されています。

かくして自他共に認める、缶ビール製造のパイオニアとなったフェリンフォエルは、缶ビールの成功の記念に、ビール工場とブリキ工場の全ての従業員に缶ビールを配りました。
フェリンフォエル社は現在も健在で、エールビールを製造しており、主力商品のドラフトビール「ダブル・ドラゴン」は1976年に、国際生ビール杯において世界最高の生ビールの栄冠を手に入れています。

ビールとソーダと兵隊
フェリンフォエル醸造会社のロゴ。戦時中、ワックスの溶け出したビールを"Felinfoel"に掛けて"feeling foul(不愉快な気分)"と兵士達から呼ばれたという。

http://www.felinfoel-brewery.com/our-brewery/
フェリンフォエルのホームページの自社の歴史紹介コーナー。気のせいか、微妙にアメリカへの対抗意識が感じられます。面白いので一読の価値ありです。
http://www.bbc.com/news/uk-wales-33484225
こちらも参考にしました。

缶の形いろいろ

今日、缶ビール、缶ジュースの形というと、容量の差こそあれ、概ね統一化されていると思います。しかしながら、現在の形状に至る以前、50年、80年前の昔は、そのデザインや機能は大きく違ったものでした。ここからは1935年をドリンク缶の生誕年と位置づけ、様々なタイプの缶を紹介します。

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ロープロフィール コーントップ缶(Low Profile Cone Top Can)
上部が円錐形をしているタイプの缶をコレクター用語で、コーントップ缶(Cone Top Can)と呼びます。コーントップ缶には四種類あり、こちらは円錐部の高さが低いため、ロープロフィール(Low Profile)と分類されます。
ロープロフィール コーントップ缶は、コーントップデザインの缶の最初の物で、1935年9月にシュリッツ社のものが最初に流通を開始しました。製造は専らコンチネンタル製缶社により行われました。コンチネンタル製缶社は、1904年に創業したアメリカを代表する製缶業者で、第二次世界大戦中は航空機パーツや爆弾の製造も政府から請け負いました。
最初期のロープロフィール コンーントップ缶は、フラットボトム(Flat Bottom)と呼ばれる平坦な底面でしたが、その後、コンケイヴボトム(Concave Bottom)という凹面構造の底面へと変わりました。コンケイヴボトムは現在流通している炭酸飲料の缶にも見ることができます。この凹底面を持つ缶は陽圧缶といい、炭酸飲料の高い内圧に耐えるための構造です。
また、最初期のデザインの特徴としてインヴァーテッドリブ(Inverted Ribs)と呼ばれる、反転リブが施されていました。このリブの存在理由についての情報は今のところ得られていませんが、リブを入れるというのは、薄い素材で成型された中空の物体が無加工だと強度不足になる場合に多く用いられます。これは一斗缶や達磨ストーブなどの他の工業製品にも見られる処理です。無理矢理ミリタリーに関連づけるなら、M16ライフルのマガジンなどが反転リブのいい例です(笑)。恐らくコンケイヴボトムの採用により、美観を崩す上部リブの必要性が無くなったのだと予想します。
美観と言いますのも、缶ビールの登場まではビールの容器は樽もしくは瓶しかなく、当時のビール愛飲家のなかには瓶ビール原理主義者、缶ビールに馴染めない、不快感を表す人達も少なからずいました。メーカー側としては、新商品のイメージアップは必須かつ火急の事であり、コーントップのデザイン自体が瓶ビールを意識したものだったのです。古いビール瓶を調べてみても、瓶の肩部にこのようなリブのあるデザインは無く、古きよきビール瓶のデザインに多少でも近づけたかったと考えるのは不自然な考察ではないと考えます。
第二次世界大戦が始まると、軍隊における金属の需要が高まり、缶飲料の生産量が低下し、このロープロフィール缶の歴史も幕を閉じることとなりましたが、西海岸においては例外的に一部で40年代後半まで使用されました。

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左から、フラットボトム、コンケイヴボトム、インヴァーテッドリブ。

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ジェイ スパウト コーントップ缶(J-Spout Cone top Can)
Jスパウト コーントップ缶は、1937年に市販が開始された二番目のコーントップデザイン缶です。1892年ボルチモアに創業の、クラウン コルク&シール カンパニーは元々ビール瓶などの王冠を製造していましたが、この缶をもって製缶業界への参入を決定しました。クラウンホールディングスは現在、金属缶パッケージの世界最大手の一つとなっています。
Jスパウトの由来は、細く伸びたネックから肩への稜線のシルエットが"J"の文字に見えるためとされています。このネックの意匠もビール瓶の形状を意識してのものであり、瓶ビール党の消費者に、より缶ビールに親しんでもらおうという意図でした。また、この缶も最初期のものはフラットボトムでしたが後にコンケイヴボトムへと変更されました。
35社を超えるビールメーカーに採用されたJスパウト缶でしたが、ロープロフィール缶と同じく、開戦により、1941年に生産終了となりました。


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ハイ プロフィール コーントップ缶(High Profile Cone Top Can)

1938年、アメリカン カン カンパニーによって生み出されました。ロープロフィール缶に比べ、円錐部の背が高いためハイプロフィールと呼ばれています。アメリカン カン カンパニーは1901年に設立された企業で、当初はブリキ缶の製造を行っていました。第二次世界大戦時の軍需品生産契約が全米97位の企業でした。
ハイプロフィール缶の優れた機能美はコーントップ缶の完成形となり、瞬く間に缶飲料市場におけるスタンダードデザインとなったのでした。ハイプロフィール缶は全てコンケイヴボトムですが、例外としてアメリカン カン カンパニーだけは1940年代の間、フラットボトムで製造していました。コーントップ缶としては最も後年まで使用されたデザインで、第二次世界大戦を乗り越え、1960年まで市販されました。
今日、オークションなどで目にする機会が一番多いのが、このハイプロフィール缶です。
ここまでの三つのコーントップ缶は3ピース缶といって、筒部、底部、上部(円錐部)が三つのパーツで構成されています。

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クラウンテイナー コーントップ缶(Crowntainer Cone Top Can)
他の工業製品でも得てして起こる現象ですが、淘汰を繰り返し標準的な製品が生み出される一方で、アクの強い奇妙な製品も作り出されたりもします。また、そういった物が意外に生き残ることも、よくあるようなないような...不思議ですね。
クラウン コルク&シール カンパニーが開発したクラウンテイナー缶は、円錐部と筒部はシームレスの一体整形でコンケイヴ底部と組み合わさった、2ピース缶で、表面処理は金属地のものとエナメル塗装のものがありました。採用した醸造社は70を超えました。
クラウンテイナー缶は、クラウン コルク&シール カンパニーの社員だった、アモス・カルソンとその息子エドガー・カルソンによって発明され、1937年6月23日に米国特許商標庁に「新しい独自の金属瓶」としてデザインの特許出願され、デザインパテントナンバー109,311を与えられ、1940年5月13日には「容器」として登録出願が提出され、パテントナンバー2384810を取得しました。
カルソン父子は「管型金属容器」における、革新的改善案として、35件の特許を出願しました。前述のように、クラウンテイナー缶は2ピース構造で、強度的特性に優れており、単純で安価に製造できました。彼らの特許は最終的に1945年9月15日に認められ(REG.U.S.PAT.OFF.NO.366873)、クラウンテイナーはクラウン コルク&シール カンパニーの登録商標となりました。恐らく、クラウンテイナーというのは、クラウン コルク&シール カンパニーの"Crown"と容器を意味する"Container"の合成語と思われます。
クラウンテイナー缶は、1937年6月23日、C.シュミット&サンズ醸造社によって始めて使用されました。この一風変わったコーントップ缶も、ハイプロフィール缶と同じく大戦を生き抜きましたが、1955年のL.F.ノイヴァイラー社による使用を最後に市場から姿を消しました。


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フラットトップ缶(Flat Top Can)
史上初めて、1935年1月24日にクルーガーが、缶ビールの市販を開始した際に採用したデザインがフラットトップでした。円錐形の上部を持ったコーントップと比して、平らな上面のためこう呼ばれます。現行の缶に近いデザインですが、上下縁部にくびれがなく、正に「カン」といった見た目です。このフラットトップ缶と発展型と、後述するその派生型の缶はシンプルで美しいですし、僕の好きな50~70年代に広く使われた缶なので一番好きなタイプです。

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フラットトップ缶の上面は文字通り平らで、飲み口はありません。缶詰をイメージするとわかりやすいと思います。中身を飲むためには「チャーチキー」と呼ばれる、金属製のカンオープナーで穴を開ける必要があります。上面でも底面でもよいのですが、対角線上に二箇所開けます。一斗缶やポリタンクから液体を注ぐとき、空気穴を確保するのと同じ要領です。
新製品のフラットトップ缶の開栓方法に戸惑ったのは当時の消費者もおなじで、メーカーは缶にチャーチキーの使用方法をイラストと共に表示しました。1935~37年の初期の段階では上の写真のように、パッケージ裏全体に大きなインストラクションが載っていました。消費者が開栓方法に慣れるにつれて、メーカーは徐々にインストラクションを小さくしていきます、大多数のメーカーは1940年代の間に開栓手引きの表示をやめますが、50年代初頭までは一部のメーカーにより継続されました。

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IRTP缶
1935年6月から1950年3月30日までに、アメリカ合衆国国内で製造されたビア缶には”IRTP STAMP”と呼ばれる表示が見られます。IRTPは"Internal RevenueTax Paid"の略で、「内国税歳入証明」のことです。これはアメリカにも酒税があり、アメリカ合衆国内国税歳入庁(IRS=Internal Revenue Service)に酒税を納税しましたよ、という証明にまります。多くの場合、缶の胴体に小さい文字で、コーントップ缶ではキャップに表示が確認できることもあります。この表示がある缶は1950年以前の物と判断できますが、ごく初期の1935年製造のクルーガー・ビールとトゥウルー・ブルー・ビールの一部には無表示の物もあります。
IRTPスタンプの文言には"Internal RevenueTax Paid"のほかに"Withdrawn Free of Internal Revenue Tax For Exportation"=「輸出のための内国税免除」があります。
1941年12月9日、アメリカは太平洋戦争へと入ります。資源豊富なアメリカとはいえども鉄は貴重な軍需物資でした。当時の缶は多くが鉄製(上下面はブリキなどもあった)だったため、缶の製造に制限がかけられ、翌42年より生産ペースが落ち始めます。
しかしながら、アメリカという国はやはり半端ではありません。民間向けの生産は制限されましたが、国内の大規模醸造所と軍向けのビール納入の契約を開始します。1944年には、その数は40社にも上りました。軍納入品ビア缶の配色は、当初は民間市場向けと同じくカラフルなものでしたが、1944より緑色を基調とした配色になり、その名も"Olive Drab Cans"と呼ばれています...(笑)

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オリーブ・ドラブ缶
見づらいですが二枚目の缶の一行目が"Withdrawn Free of Internal Revenue Tax For Exportation"です。OD缶は1946年には民間向けのカラーリングに戻されますが、Withdrawn~の表記は変更されませんでした。OD缶は生産期間が短いためか海外では高値で取引されているようです。一個600ドルとか...。

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写真1・1944年撮影、木陰に座る兵士とシェーファー・ビール。
写真2・詳細不明、基地内での写真でしょうか、OD缶がいくつも確認できます。
写真3・フィリピン、マニラの海軍基地にて、終戦を祝って一人四本の缶ビールが配られた。45年まではOD缶だった。
写真4・1944年12月、F.&M.Schaefer(シェーファー・ビール)の元社員フェリックス・ミネット氏、同社の缶ビールを手に先住民と記念撮影。南太平洋のどこかの島。

アメリカ軍は、契約醸造所の生産ラインの15%を軍納入の缶ビールや瓶ビール向けに稼動するよう求めました。かくして大量のビールが基地で購入できるようにしました。これには、例えばフィラデルフィア出身の兵士が駐留している基地ならば、フィラデルフィアのシュミット・ビールといったように、ご当地ビールを置くことにより兵士の士気を保とうという狙いがあったようです。国家プロジェクトとしての禁酒法は終了していましたが、禁酒支持派の人々の活動は根強く、軍隊へのアルコール供給に対して反対運動が起こったため、度数4~7%のフル・レングス・ビールの納入は見送られ、アルコール度数3.2%制限を設けることとなりました。
IRTPスタンプの表示義務は、1950年3月30日に撤廃されます。よってIRTP表示の有無は、いささか大雑把ではありますが、缶の年代判別になると言えます。
他に缶の年代判別方法は...

・バランタイン・ビール社とアメリカ西海岸で販売された缶には、上面もしくは底面に日付が入ります。この日付は缶詰めされた日か、醸造された日を示すので、かなりの確度で判別できます。バランタインビールはベトナム戦時写真で数枚確認しています。
・一部のメーカーは、缶のパッケージデザインの版権(コピーライト)を取得した年を印字しました。この数字は缶の製造年を大まかに特定するのに使用できますが、気をつけなければならないのは、決して製缶された年を示すものではないということです。例えばオリンピア・ビールの缶には禁酒法以前のコピーライトが入っている場合があります。しかしながら、コピーライトが年代測定に全く役に立たないわけではありません。コピーライトの年号を見つけることができれば、少なくともその缶がその時まで生産されていたことの証拠となります。
また、シュリッツ・ビール社に関しては、この表示が大いに役立ちます。シュリッツビールは、ほぼ二年に一度パッケージデザインを変更したため、コピーライトによる年代判別の確度が高いといえます。シュリッツのビア缶に見られるコピーライトは、1946、1949、1954、1957、1958、1960、1962、1966年です。シュリッツビールはベトナム戦争中の写真でも、66年モデル缶を米軍兵士が手にしているのを頻繁に見ることができます。コピーライト表示は缶筒部の合わせ目(当時は一枚のスチールシートを筒状に丸めて接合する製法だった)あたりによくあります。僕もシュリッツ缶を一つ持っていますが、"C 1962"の印字でした(涙)...よく見て買おうね!
・ビール会社の廃業年を調べる。聞いたこともない会社の名前でも、グーグル先生にお伺いを立てると意外と出てきます。廃業年が分かれば、少なくともその年以降の缶でないことが予想できます。しかし、他の会社がブランド名を買い取って、製造を続けている場合があるので注意は必要です。が、早合点せずに慎重に調べれば、その手の情報も出てきますので大丈夫です。ネットは広大よ。
・1935~53年の期間に限りますが、アメリカン・カン・カンパニー(製缶業者)の缶には、製缶した年を示すマークが缶底部の縁に小さく表示されています。このシンボルマークも謎の象形文字みたいで面白いですが、数も多く大変なので、後でまとめてソースを貼りますのでそちらでご確認ください。
・年代が判明している写真に写っている缶のデザインをよく観察する。一番手っ取り早く確実です(笑)

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ソフトトップ缶(Soft Top Can)
今日、多くの飲料缶はアルミですが、50、60年代は筒部・鉄/上下蓋・ブリキの組み合わせが主流でした。50年代末期にはプリモ社とクァーズ社がオールアルミニウム缶を採用していましたが、市場における完全な成功は収められませんでした。ブリキ製の蓋は硬く、チャーチキーで穴を開けるのに負担となっており、できるだけ缶の厚みを薄くする対策がとられました。
1960年の夏、オハイオ州シンシナティのメーカー、バーガー・ビール社が"E-Z OPEN SOFTOP"=「イージーオープン ソフトップ」缶を発売します(写真一枚目)。これは鉄製の筒部にアルミ製の上下蓋という素材構成の缶で、チャーチキーによる穴あけが格段に楽になるものでした。アルミニウムトップはすぐに市場に受け入れられ、他のビールメーカーも追従しました。テキサスのローン・スター社が早い段階で採用し、全米でも屈指の大手メーカー、シュリッツ社も例外ではありませんでした(写真二枚目)

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プルトップ缶(Pull Top Can)
プルトップ缶は1959年、オハイオ州デイトンで誕生しました。生みの親のエーマル・フレイズ氏は工具と金型職人で、1949年にデイトンリライアブル・ツール&マニファクチャリング・社を設立しており、アルミニウムを含むあらゆる金属の扱いに精通していました。
言い伝えによれば・・・ある日、ピクニックに出かけたフレイズ氏は缶ビールを飲もうとした時、チャーチキーを忘れたことに気付きます。結局、午後いっぱいの時間を費やし、車のバンパーでなんとか缶をこじ開けたとき、氏はチャーチキーに代わる、より良い開缶方法の開発を決意していました・・・
フレイズ氏は優秀な金属加工技術者でしたが、プルタブの実用化には工学的な工夫が相当に求められました。プルトップ缶の開口部
には、スコアリング(scoring)呼ばれる溝があります。スコアリングはいわば、切り取りガイド線ですが、この溝が浅すぎると開栓が困難になってしまい、逆に深すぎても耐久力が低下し、炭酸ガスの圧力でタブが吹き飛んでしまいます。フレイズ氏は幾度も試作と試験を繰り返し、最適なスコアリングの引き裂き強度を導き出し、タブはリベット止めとなりました。この時フレイズ氏が生み出した最初のプルトップは、ジップ・トップ(Zip Top)と呼ばれています(写真一、二枚目)。また、タブの形が扇風機の羽に似ているのでファン・タブ(Fan Tab)とも呼ばれています。
フレイズ氏はジップ・トップの権利を、かの有名なアルコア社に売却します。彼らはピッツバグーグのアイアン・シティー醸造社にジップ・トップの採用を持ちかけます。1962年3月、アイアンシティー社はジップ・トップ缶の試験販売をバージニア州で開始します。史上初のプルトップ缶のテスト販売は成功裏に終わり、その年のアイアン・シティー社の売り上げはシュリッツ社(ソフトトップを採用していた)を抜くこととなりました。
しかしながら、問題が起こらなかったわけではありませんでした。初期のジップ・トップはタブや開口部の縁が鋭く、指や口、はては鼻切ったという苦情が相次ぎました。また、新機構はその使用方法において、一部の消費者を困惑さたため、タブの横に(Lift Tab,Pull Open)の文字が入れられるようになりました。1963年半ば頃から、開口部の左右にスマイル・ビーズ(Smile Beads)と呼ばれる凸リブが追加されます。これは缶から直接飲む際に、口の端に液体が流れないようにするためのものでした。また、タブがリベットごと折れて、飲み口が開かないということも起きました。消費者の中にはプルットプを嫌い、缶底部にチャーチキーで穴を開け、従来通りの方法で飲む者もいました。なんだか瓶から缶への切り替わりの時代にも似たようなことがあった気がしますが・・・いつの世も変わらないですね。
缶のプルトップ化は、6パック(アメリカではビールやソーダなど、6本ワンセットで売るのは一般的。クリント・イーストウッドのハートブレイク・リッジで6パックのバドワイザーが出てくるシーンは印象的です)につき1~5セントのコスト増であったため、一部の醸造社は採用せず、一時的な流行であり、すぐに廃れるとの批判の声もありました。また、プルトップはチャーチキーにとっても脅威でしたが、プルタブの構造の欠点からチャーチキー製造業者は危機感をそれほど持っていなかったようです。
ところが大方の予想とは裏腹に事は進みました。シュリッツやアイアン・シティーはプルトップを大々的に宣伝し、直ぐに大衆の耳目を集め、アイアンシティーの売り上げは一年で223%増加しました。1963年6月までに40のブランドが、1965年には全米の醸造社の4分の3がプルトップ缶を採用することになります。
ジップタブから始まったプルタブ缶は問題点を少しずつ改良し、進化していき、1965年にはリング型のタブが開発されます(写真三枚目)。こうしてフラットトップ缶の時代は終焉を迎えることとなります。

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ステイオンタブ缶(Stay-On-Tab)
改良を重ね、あっという間にフラットトップ缶から飲料缶デザインのシェアを奪ったプルトップ缶でしたが、れも永遠ではありませんでした。まず蓋から外されたプルタブのポイ捨てが問題になりました。海岸などに捨てられたプルタブで足を切る事故は有名なものの一つで、缶の中に落としたプルタブの誤飲事故や野生動物が誤って口にしてしまう例も多く報告されました。
こうした事態を受け、70年代よりプルタブ規制の機運が高まります。バージニア州リッチモンドのレイノルズ・メタルズ・カンパニーの技術者だった、ダニエル・カジク氏は新たな開栓方式を発明します。これは、タブを開口部側に起こし開栓後、最初の位置に戻し、タブはそのまま缶上部にリベットで留まるとういうものでした。ようは現在一般的に見る方式です。レイノルズ社はイージー・オープン・ウォール(Easy-open wall)として1975年11月24日に特許出願し、76年7月6日にパテントナンバー(US3967752)を取得します(写真三枚目)。レイノルズ社はこれを"Sta-On-Tab"と名づけました。
初めてステイオンタブを採用したのは、フォールズ・シティー醸造社で、1975年12月にウェスト・ヴァージニア州でテスト販売を開始しました。消費者からの反応もよく、フォールズ・シティーは"STa Tab"と名づけました(写真一、二枚目)。
遂に完成をみた飲料缶のトップ構造でしたが、プルタブ式ほど迅速には普及しませんでした。これは、ステイオンタブは使用者の負担を軽減するため、ボディはスチール製で、蓋は鉄よりも柔らかいアルミニウム製が基本でしたが、1973年から76年にかけてアルミの値段が1ポンドあたり、26セントから48セントまで倍増したためでした。また、当時アメリカでは既にリサイクルが盛んで、鉄とアルミの混合缶がリサイクルの工程を難しくしてしまうという理由もありました。全鉄製のステイオンタブ缶も作られましたが、普及の促進には繋がりませんでした。
1980年代に入ると、全アルミニウム製のステイオンタブ缶が広まり始め、90年代には市場の飲料缶はステイオンタブ式に置き換わりました。アメリカにおける最後のスチール製ビール缶は、1993年のアイアン・シティー社の製品で、プルタブ缶もその歴史に幕を閉じることとなります。

参考サイト
http://www.rustycans.com/sitemap.html
アメリカの缶コレクターのサイト。アメリカン・カン・カンパニーの製缶年マークはここで紹介しています。
http://www.ebeercans.com/cone-top-beer-cans.php
コーントップ缶のページ。
http://www.crowntainer-central.com/
クラウンテイナーの専門サイト。
http://www.greenmon.com/first_beer_cans.htm
クルーガーの最初の缶ビールのページ。
http://cansmartbeerhttp://www.beercanmuseum.com/Page_30.html
http://www.beercanmuseum.com/Page_30.html
オリーブ・ドラブ缶のページ二つ。
http://www.beercanpro.com/beer-cans.php
歴代の飲料缶を簡単にわかり易く紹介。
http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Beverage_can
http://www.cancentral.com/can-stats/history-of-the-can/time-innovation
飲料缶の歴史解説ページ二つ。
https://www.google.com/patents/US3967752
イージー・オープン・ウォールのパテントのデータ。関連する特許も見ることができます。日本の会社の名前も...。

越南缶事情

ここまで長々と面白くもない(?)飲料缶の歴史を紹介してきましたが、今回の本題はベトナム戦争中の写真の中に確認できる、ビール缶やソーダ缶です。60年代、70年代の兵士の手に握られている缶への考察に、アメリカにおける飲料缶の歴史知識が少しだけ必要なのです。
ベトナム戦争缶の考察は、写真の解像度、そもそも被写体としての缶自体が小さすぎるなどの理由から困難が多く、その割に得られるものが少ないです。ですが、戦闘行為というのは戦争における、兵士の置かれる状況の一側面です。当時の兵士が戦地にてどのような生活を送っていたのか...というとそこまで迫れる気がしないですが、その一端でも紹介できればと思います。
6、70年代、ベトナム戦争中の写真には、ありとあらゆるビール、ソーダなどの清涼飲料水を見ることができます。その多くはアメリカブランドのものです。もしかしたら、当時のアジア圏で最もアメリカの飲料缶が存在した国の一つかもしれません。ここからは写真で確認できる様々な飲料缶を軽い説明とともに紹介していきます。

コカ・コーラ(Coca Cola)

ビールとソーダと兵隊

世界一有名な炭酸飲料なだけあって、写っている写真もたくさんです。画像のデザインのものは、66年~69年の間に使用されたものとされており、通称ハーレークィーン缶とかダイヤモンド缶などと呼ばれています。この前にまだ二種類デザインがありますが、ベトナム戦の記録写真では今のところ見たことがないです。68年8月の撮影となっています。3rdパターンらしきTCUを着ているので、その辺り以降の年代だと思われます。デザインの派手さもあって人気があり、海外オークションでそれなりの値段で取引されています。


ビールとソーダと兵隊

1969年、兵舎でくつろぐ75連隊L中隊の隊員。背後の棚にコーク缶が見えます。手前の人のERDL TCUに、レンジャースクロールタブとリーコンドー章が確認できます。師団SSIはコーク缶の後ろに掛けてあるTCUに101空挺師団らしき配色のものが確認できます。殆どのLRP中隊が75レンジャー隷下になったのは69年2月1日以降ですので、それ以降の撮影になると思われます。棚にクリスマスカードらしきものが見えるので、もしかしたらですが年末かもしれません。左上、ピストルベルトがデイビスバックルです。ネームテープとU.S.ARMY章が水平に付けられているので、この人がユニフォームを作ったのは、1969年2月から9月の間かもしれません。ネームテープを胸ポケットフラップに沿って付ける規定は69年9月に指令されました。もっとも規定変更後、直ぐに切り替えたかは分かりませんが...。


ビールとソーダと兵隊

1969年、チューライ(Chu Lai)、パイロットのために冷蔵庫で冷やされているコーク缶。上段にはシュリッツビール缶も並んでいます。チューライには1965年より、米海兵隊、米陸軍、ベトナム共和国陸軍のベースエリアがあり、米海兵隊のチューライ・エアベースがありました。ヘリコプターはもちろん、ジェット機の離着陸が可能な滑走路を有していたので、VMFA=(海兵戦闘攻撃中隊)やVMFA(AW)=(海兵全天候戦闘攻撃中隊)のF-4ファントム、A-4スカイホーク、A-6Aイントルーダーが任務に就いていました。きっと、帰投したパイロット達が冷えたコーラやビールで喉を潤していたはずです。


ビールとソーダと兵隊

撮影年も場所も部隊も不明です。ERDL TCUを着ています。ERDLパターンのTCU(トピカル・コンバット・ユニフォーム)の初期ロットがベトナムに送られたのは、1967年2月ですが、その多くはNAVY SEALや長距離偵察部隊へと回され、使用は限定的なものでした。初期ロットは生地はノンリップストップ/コットンポプリン。パターン同士の境界が明瞭です。コレクター間ではファーストパターンと呼ばれたりしますが、勢製造期間は短く、同年中にセカンドパターンが登場します。セカンドパターンはノンリップ/コットンポプリン生地は変わりませんでしたが、パターン同士の境界が滲んだように不明瞭になります。68年からはセカンドの生地をリップストップに変更したサードパターンの生産が始まります。画像のERDLは焦点がずれているため、滲みは確認できませんが、ノンリップ/コットンポプリン生地のようです。

話が逸れました。この画像を選んだ理由ですが、珍しく缶が大写しになっているのです。通常人物を写した写真の主役は「人間」です。身近なこと(?)で例えれば、飲み会の記念撮影でビールジョッキに焦点を当てて撮る人はいないと思います。そんなわけで当時の写真でも飲料缶は小さく写っているものばかりで、しかも上面などは金属の地肌そのままの場合が多いので光ってしまっていたり、逆に暗すぎたり、画質が悪かったりでディテールを確認できる資料性の高い画像は少ないです。
飲料缶の歴史でも述べた通り、アメリカ本国では60年代中頃には、飲料缶の大多数はプルットップへと切り替わっていました。それはコカ・コーラも例外ではありません。他のソーダ缶やビール缶も同じく、ベトナム戦争中の写真では、なぜかフラットトップのものが多いです。これについての考察はまた後に述べたいと思います。
この写真の缶の見所は、なんといっても缶上面です。チャーチキーで開封されているのが分かるかと思います。ロゴを観察したところ、逆さまに持っているようです。なので、プルルトップ缶の可能性も否定できませんが、仮にそうだとしたら、わざわざチャーチキーを使用したというのも興味深いです。天地無用で開栓している例は、他にも多々見られます。

ビールとソーダと兵隊

1970年。第101空挺師団、第502空挺歩兵連隊、第2大隊アルファ中隊の無線手らしき兵士。山盛りのライトウエイトラックサックの脇に、ストラップ状のものでコーク缶を固定しています(笑)
コットンもしくはゴム引きの2QTのキャンティーン(個人的にはコットンに見えます)、ポンチョ、バンダリア(これは腰にも)、M18スモークグレネード、AN/PRC25もしくは77の上には5QTブレダー、ハンドセットは見づらいですが、もしかしたらH-33F/PTかもしれません。作戦地域というわけではなく、キャンプからどこかへ移動中の写真でしょうか。まさに荷物満載という感じです。あまりの重さに、M69アーマー(正確な名称は、3/4カラーフラグメンテーションプロテクティブボディーアーマー)がずれて肩に食い込んでいます。
1970年より、コーク缶はこのデザインになりました。お馴染みの白いウェーブに"Coca Cola"の白いロゴです。80年代に入ってもこのデザインは引き継がれますが、大きな違いは80年代缶がマットな塗装に対し、60、70年代缶はメタリックカラーという点です。コーク缶に限らず、光沢仕上げの缶はこの年代に多く存在します。もしかしたら流行だったのかもしれません。本当に派手にテカテカしていて、とても綺麗で僕は大好きです。


ビールとソーダと兵隊
ビールとソーダと兵隊

くつろぐ兵隊さんたち。二枚とも半裸ですが別にそういう趣味はないです(真顔)。いまいちメタリック感が伝わらないかもですが、70年代コーク缶はこんなデザインなんだということです。

ペプシ・コーラ(Pepsi Cola)

ビールとソーダと兵隊

1966年6月20日、USOツアーで第7海兵連隊を訪れたジョン・ウェイン。USOとはUnited Service Organizationsのことで、フランクリン・ルーズベルト大統領の命により、1941年2月4日に設立された、軍務につく兵士への援助、娯楽提供のための非営利組織です。ベトナム戦争中も多くのハリウッドスターやエンターテイナーが戦地を訪れ、慰問のキャンプショーなどを行いました。
大柄なウェインの陰に隠れた人物が60年代のデザインのペプシ缶を持っています。メタリック仕上げのストライプ地に赤、白、青のお馴染みのペプシカラーの王冠に"Pepsi Cola"の文字が入った意匠をしています。このパッケージは59年からとされていますが、定かではありません。しかし、60年代を通して使用された缶であることは間違いないようです。
余談ですが、同日、ウェインは第101空挺師団の第502空挺歩兵連隊も慰問に訪れています。このとき彼の左胸のポケットに第2軍管区マイク・フォースのハンガーパッチらしきものがぶら下がっています。
また、髪の毛が普段よりも薄いとの情報を頂きました。動画が残っていましたので、ウェイン氏の頭部を注視し、同年代の氏のポートレートと比較鑑定したところ、まったく毛量が異なることを確認しました。氏はこの頃、かなり髪が薄くなっており、普段は鬘を使用していたようです。ハリウッドスターとして、お洒落や身だしなみへの拘りだったのでしょうが、ベトナムの気温と湿度には、さしものハリウッドの大物タカ派俳優も頭を垂れる...もとい頭を晒さざるを得なかったのでしょう。のちのベトナム戦争の行く末を暗示するかのような出来事と言えましょう(お昼のワイドショーご意見番風)。
ある日、とある大学で特別講義を行ったウェインに対して、一人の学生が、その髪は本物なのかと質問した際、ウェインはこう答えました。

「ああ本物だよ。ただし私のではないがね」

学生の失礼極まりない質問に対し、ウィット溢れるセリフで返せる余裕、度量の大きさ。正に「デューク」の名に相応しい大物です。いつの日か、自らがはげ散らかしたとしても、こうありたいものです。いや、できることなら死ぬまで毛根温存したいですが(切実)。

ビールとソーダと兵隊ビールとソーダと兵隊

60年代後半の第101空挺師団の写真。
二枚目は海兵隊の兵士の写真。ユーティリティーのボタンが確認できれば、期間を絞れるのですが、見事に一個も写っていないのが残念です。海兵隊は全く知識がないので、今後の課題です。


ビールとソーダと兵隊ビールとソーダと兵隊

こちらもペプシ缶。このデザインは1970年以降の写真でよく見ます。同じデザインで、上部に括れのあるものもありますが、ベトナム戦地写真では見たことがありません。恐らくもっと後年のものと思います。二枚目の写真をよく見ると、チャーチキーによる穴が二つ開いている様に見えます。これも何故かフラットトップ缶です。タブ付のSSIはサンドウィッチで、カラーとサブデュードです。ネームタブとローカルメイドのU.S.ARMY章は、69年規定で付けられています。とても格好良いです。画質が悪いのが残念な一枚です。


ビールとソーダと兵隊

レンジャーL中隊の隊員です。さっきから101ばっかりですが、偶々です。
M16A1ライフルに30連マガジンがささっています。ライトウェイトラックサックに2QTキャンティーンポーチがくっついていますが、皺の入り方からしてナイロンぽいです。

ビールとソーダと兵隊

いい雰囲気の写真です。詳しい方に教えていただいたのですが、南ベトナム海兵隊付軍事顧問です。3rdパターンの南ベトナム海兵隊のタイガーストライプユニフォームを着用しています。3rdパターンジャングルブーツ。柱の向こうに3/4カラーアーマーが確認できます。70年代のペプシ缶とコーク缶が一緒に写っています。机上の真ん中の缶は、断言はできませんがフォルスタッフ・ビールかもしれません。フォルスタッフのロゴマークが大きくプリントされている側でなく、裏面に見えます。


ビールとソーダと兵隊

1971年頃、TF2AE,ポール・シェレンバーグ氏(RTオハイオ)。
71年以降のTF2AE(CCC)の対外越境作戦チームは、北ベトナム軍のコピー装備品で完全偽装しているのが多く見受けられます。ここでは写っていませんが、北ベトナム軍の靴を履いています。写真に写るのを嫌って、ピスヘルメットを隠そうとしています。服は北ベトナム軍のコピーかよく分からない謎服です。STABOエクストラクションハーネスには、SDU-5/Eストロボライトとパイロット・サバイバルナイフとオーソドックスな組み合わせですが、腰周りは、ハンガリー製AMD65自動小銃に合わせ、CISOアムニッションポーチを付けています。キャンティーンポーチには救急用品や手榴弾などを入れていると思われます。あくまで予想ですが、写真のキャンティーンポーチは膨らみ方や陰影の出方から、手榴弾かなと思います。

ビールとソーダと兵隊ビールとソーダと兵隊

これはベトナム戦の写真ではありません。缶のデザインも、ほんの少しだけ変わっています。でも心に残った写真だったので掲載します。
1975年4月12日、カンボディアの首都プノンペンからアメリカ人とカンボディア人の脱出作戦が行われました。ヘリにより、タイランド湾の船舶へと避難民を輸送し、289人を救出し、イーグル・プル作戦(Operation Eagle Pull)は米国の戦術的勝利となりました。作戦終了後の5日後、プノンペンはクメール・ルージュに占領されます。この時に脱出できた人々は、カンボディア人のほんの一部です。その後のカンボディアを考えれば、彼らが幸運だったことは間違いありませんが、それでも家財一切、あるいは親類、友人を残し祖国を捨てなければならなかった心中はいかほどだったでしょうか。握り締められた缶がまた別のものに見えてきます。同月、月末に同じことがベトナムでも繰り返されます。

セブン・アップ(7UP)


ビールとソーダと兵隊

SCU(スペシャル・コマンド・ユニット)隊員。1968年RT(リーコン・チーム)アラバマ。
レモン味の炭酸飲料です。アメリカドラマ観てると柑橘系のジュースが時々出てくるのですが、人気があるのでしょうか。シトラスとか。
この白地に緑文字のデザインは、ネットで調べると64~67年の間使用されたと情報が出てきます。隣はファルスタッフ缶です。紙皿にポテチをのせて、まるで大学生くらいのニーチャン達が川原でBBQをしているみたいです。年齢的には皆さん20代前半が多いので、あながち間違いではないかもしれませんが(笑)


ビールとソーダと兵隊

左から、リン・M・ブラック・Jr氏(1-2=無線手。RTアイダホでは1-0=チームリーダーを努めた。SOGの書籍も執筆している著名なベテラン)、Loc Hua氏(0-1=雷虎のチームリーダー)、スティーブ・エンゲルケ氏(1-1=アシスタントチームリーダー)、Du Nguyen氏(スカウト)、Khan "Cowboy" Doan氏(インターセプター)、Cuong Nguyen氏(スカウト。68年10月5日戦死)、Hoa Nguyen氏(ポイントマン。68年10月5日戦死)、Quang Do氏(スカウト)。
7UP以外に、エンゲルケ氏がパブスト ブルーリボン、Du Nguyen氏がカーリング・ブラックラベル、Hoa Nguyen氏がファルスタッフを手にしています。これだけごちゃ混ぜなのも珍しいです。

ビールとソーダと兵隊

装備品の感じから、68年頃のLRPではないかと思います。前述のパッケージ意匠の7UPを飲んでいます。ネットの情報も当てにはならなそうですが、日持ちのするものなので、流通在庫品や67年末に出港した荷を68年に入手している可能性もあります。リーフTCUにタイガーハット、バヨネットの組み合わせが個性的です。キャンティーンポーチに弾倉ギッシリは、リコンドースクールで習ったのでしょうか。


ビールとソーダと兵隊

SOG RTのOPS35隊員(アメリカ人軍事顧問)、ベトナム共和国軍陸軍特殊部隊NKT雷虎の隊員。
70年代に入ると7upのパッケージデザインも変更となったようです。メタリックグリーンの地に、白抜きの"7"と"up"の間に赤色の丸が入ります。歴代7up缶の中でも最高にクールなデザインだと思います。

ビールとソーダと兵隊

もう一枚70年代7up。左の人が、俗に呼ばれるところの、ブラウンリーフパターンのトラウザーズを穿いています。

ビールとソーダと兵隊
ビールとソーダと兵隊

もう一つの7UP缶。前述の二種類の他に、白地にオレンジのスクエア、その中に白抜きの7UPというデザインの缶も存在します。ネットで調べると、この間は61年から63年の間採用され、64年より白地に緑文字の缶に変更になったとされています。しかしながら、上の二枚の写真を見れば分かるように、明らかに60年代後半に存在しています。ベトナム戦争の期間においては、メタリックグリーンの缶が最終型なのは間違いなさそうなので、この缶は緑文字の缶の前後、もしくは同時に存在していたのかもしれません。

ドクター・ペッパー(Dr Pepper)
ビールとソーダと兵隊

人によって好みが分かれる炭酸飲料の筆頭(?)のドクター・ペッパーも戦地で飲まれていたようです。因みに僕は大好きです。杏仁豆腐みたいな味で美味しいと思います。
写真の人は、メコンデルタで活動したMRF TF-117(モービル・リバライン・フォース タスクフォース117)の水兵さんです。MRFの第一陣がベトナムに到着したのは、1967年初頭(2月28日頃?)なので、それ以降の撮影であることは間違いなさそうです。
ブラックベレーをかぶり、チタニウムアーマーを着ています。正式名称はARMOR BODY, FRAGMENTATION PROTECTIVE (T61-5 COMPOSITE ARMOR)で、襟は3/4カラー、ナイロンの外皮の下はチタニウム板が鱗状に並べられた構造をしています。1964年11月にテストを終了し、1965年より支給が開始されたようです。アメリカ合衆国商務省発行のWorld Index of Plastics Standards(1971年12月公布版)には、初公開もしくは最終改定が1965年との記載があります。
この珍しいアーマーはMRFなどの河川哨戒部隊での着用が多いようです。メコンデルタは他に、ストーナーライフルやメッシュ生地ジャングルブーツの支給があったとされる、第9歩兵師団、特殊装備モリモリのNAVY SEALの活動地域でもありましたから、ある種の新装備の実地試験場だったのかもしれません・・・と妄想が膨らみます。


ビールとソーダと兵隊
ビールとソーダと兵隊
ビールとソーダと兵隊
ビールとソーダと兵隊

1968年12月に撮影された一連の写真から。南ベトナム軍の伍長と思われる人がドクペを飲んでいます。米兵、南ベ兵とその家族がテントの中で談話しているときの記念撮影のようです。
四枚目の写真、中央に見える特徴的な形の山はNúi Hàm Rồng(英語でドラゴンマウンテンと呼ばれた)だと思われます。この向きと距離でドラゴンマウンテンを撮影可能な位置にある基地は、第4歩兵師団のベースキャンプとして有名なキャンプ・エナリになります。ドラゴンマウンテンはキャンプ・エナリの北西に隣接していました。右手前の丘はキャンプ西側中央にあった通信施設(シグナルヒル)なので、撮影位置は国道14号線側と考えてよさそうです。

ビールとソーダと兵隊

ヘリコプターのドアガンナーです。レーションの空き缶をベルトフィードのガイドにするのは有名ですが、ドリンク缶を使っているのが面白いです。

ビールとソーダと兵隊

DrPepper vintage canといったような検索をすると真っ先に出てくる情報では、1968年以降のデザインとされているドクペ。前掲の大きく白い"D"が入ったデザインは65~67年とされています。が、あくまでネット上の情報なので断定はできません。ファティーグの感じからして69年後半以降、70年代に入っていてもおかしくなさそうです。

ビールとソーダと兵隊

SOG RTオクラホマでも。

ビールとソーダと兵隊

ビールとソーダと兵隊

1978年公開のホラー映画「ハロウィン」のオフショット。マイケル・マイヤーズ役のニック・キャッスル、ローリー・ストロード役のジェイミー・リー・カーティスがドクター・ペッパーを片手にポーズをとっています。
缶の構造は2ピースから3ピースに変更されています。私見ですが、ebayのマニアの出品などを見ていると、このデザインは1970年、早くて69年末頃なのではと考えています。

ローヤル・クラウン・コーラ(Royal Crown Cola)


ビールとソーダと兵隊ビールとソーダと兵隊

業務スーパーで安売りされていそうなパチモンコーラ・・・と思いきや、歴史は古く、発売開始は1905年。日本でも昔は流通があったようです。僕は今回初めて知りました。
ベトナム戦争中の写真では、上の二つのパッケージデザインが確認できます。

ビールとソーダと兵隊

まるでマッド・マックスなガントラック。M54 5tトラックにM113 ACAV(装甲騎兵戦闘車)の車体を載せています。撮影年月日は不明ですが、69年後半以降ではないかと思います。


ビールとソーダと兵隊こちらも同じような年代と推測します。


ビールとソーダと兵隊

60年代後半~70年くらい?コークとブルーリボンビールも。天地無用、逆さまに開栓されている缶があるのにご注目。


ビールとソーダと兵隊

ビールとソーダと兵隊

ビールとソーダと兵隊

ビールとソーダと兵隊

12月25日、クリスマス休戦の25歩兵師団。師団司令本部があった(1966年1月~1970年2月まで)、ク・チ ベースキャンプにおける一連の写真。

ビールとソーダと兵隊
ビールとソーダと兵隊

第503歩兵連隊 第2大隊(空挺)のリーコン(偵察隊)。M14小銃の狙撃仕様のXM21が格好良いです。

ビールとソーダと兵隊

白いパッケージのRCコーラ。米海軍の人達のようです。八角帽についているのは三等兵曹、もしくは二等兵曹の階級バッヂでしょうか。


ビールとソーダと兵隊

リーコンドースクールにて。第5特殊部隊の教官とデブリーフィングを行うレンジャーのひよっ子達。1969年3月29日撮影。白パッケージのRCコーラ、コーク、7up、ペプシ、ドクペが確認できます。これだけ多くの種類が一枚の写真に納まっていることは珍しいです。どの銘柄の、どんなパッケージデザインが同時期に存在していたのか、非常に参考になると思います。

ビールとソーダと兵隊

第25航空連隊。66~67年。

ビールとソーダと兵隊

写真から読み取った感じでは、ローヤル・クラウンは白いパッケージの方が古いデザインで、水色になったのは69年か70年あたりではと予想します。

ビールとソーダと兵隊

おまけ。逆さまに開けています。ファルスタッフ・ビールはプルタブ式のようです。

シャスタ(SHASTA)

ビールとソーダと兵隊

ここからは、あまり資料写真の見つからない、レアな(流通量が少なかった?)ソフトドリンクの紹介です。こんなのも飲まれていたよー程度になってしまいますが、何かの足しになれば・・・。
1889年、カルフォルニアに開業した会社です。当初の社名はシャスタ・ミネラル・スプリングス・カンパニーで、北カルフォルニアのシャスタ・スプリング産の天然水をボトル詰めして販売していましたが、1931年にジンジャー・エールを発売し、ソフトドリンク事業にも参入しました。50年代にはミネラルウォーターとジンジャー・エールの他に、アルコール飲料、クラブソーダ(炭酸水)が主な商品でした。60年代、シャスタはアメリカ西部においては良く知られたブランドでした。

ビールとソーダと兵隊

キャンプでの一枚でしょうか。こういった静物写真は珍しいです。パッケージデザインはカルフォルニア州北部のシャスタ山をあしらったものと思われます。IMITATION BLACK CHERRYというのは、ブラック・チェリー風ということでしょうか。

ビールとソーダと兵隊

第218憲兵中隊のMP。Vũng Rô湾を見下ろす山頂にて。少し暗めの赤なのでルートビア味かもしれません。67年以降の撮影だとは思うのですが。

ビールとソーダと兵隊

これも恐らくシャスタのコーラかチェリー系だと思われます。

ビールとソーダと兵隊

1stユーティリティーにオールレザー・コンバットブーツ。60年代半ばといった印象です。

ファンタ(FANTA)

ビールとソーダと兵隊

日本でもお馴染みファンタです。第二次世界大戦中、アメリカとの戦争のため、コカ・コーラ原液を輸入できなくなったドイツで開発されたのは有名な話ですね。
70年代に入っていそうな雰囲気の写真です。このパッケージデザインは70年代以降のものらしいのですが、断定することはできませんでした。画像のものはルートビア味です。有名なソフトドリンクでも、日本国内では流通していないフレーバーというのは、よくあるようです。

ビールとソーダと兵隊

パウダーブルーの看護服を着た女性二人。襟章のARCはアメリカ赤十字社(American Red Cross)のことです。ARCは1881年5月21日に人道支援を目的とし、ワシントンD.C.に設立されました。第二次世界大戦よりARCは、活動の一環である軍隊への義援として、女性を戦地に派遣していました。ベトナム戦争においては、長期化による士気低下を懸念した国防総省からARCへ公式にS.R.A.O(Supplemental Recreational Activities Overseas Program=補填保養活動海外派遣計画)の設置を打診し、1965年から72年の間に627人のアメリカ人女性が任を勤めました。
彼女達の仕事は、軍病院への慰問、菓子、タバコ、ジュースなどの提供、ゲーム(皆でできるような)、ビリヤード、音楽鑑賞、読み聞かせ、手紙を書く(のを手伝う?)、あるいは傍らに座り会話をするなどでした。またある時は、UH-1ヘリコプターに乗り込み、FOB(前進観基地)やFSB(火力支援基地)などの前線に近い地域にまで出向き、慰問活動をしました。ドーナツとコーヒーを手に兵士の元を訪れた彼女達は、ドーナツ・ドリー"Donut Dollies"と渾名されました。
写真には、ファンタのオレンジ味の缶が写っています。オレンジ味はファンタの中でも一番最初に発売されたフレーバーだったようです。

ビールとソーダと兵隊

こちらもオレンジ味。USOのショーガールと兵士でしょうか。

ビールとソーダと兵隊

第27歩兵連隊(ウルフハウンズ)とのキャプション。本当なら1966年1月~1971年4月までベトナムにいたので、この写真は60年代後半(3TCUなので66年以前ということは無いと思われる)から71年初頭までに撮影されたものになります。

ビールとソーダと兵隊

19世紀中葉に後装砲が開発され、施条砲の完成度が高まり、野戦砲の長距離射撃の精度が向上しました。20世紀に入ると方位測量器、高低照準具、照準具なども発展し、間接射撃の実戦における重要度が高まりました。第一次世界大戦はその始まりの一つで、戦線が硬直し、長大に伸びた塹壕線同士で間接砲撃の応酬が行われました。
砲兵が直接照準する直接砲撃に対して、間接砲撃は砲列(gun line)から標的を目視できない場合が多いので、目標地点を直に観測する砲兵前線観測員(FO=Forward Observer。ベトナム戦争においては、この役目は空軍FAC/前線航空管制機や陸軍ハンターキラーチームのOH-6観測ヘリコプターが担う場合もあった)、FOからの観測結果を元に射角、射向を砲列に指示する射撃指揮所(FDC=Fire Direction Center)が必要となります。
写真はどこかの火力支援基地のFDCと思われます。ファンタオレンジが逆さまに置かれています。

カナダドライ(Canada Dry)

日本でもジンジャーエールでおなじみ、カナダドライ。僕も子供のころ大好きで、長期休暇の帰省のたびに、酒屋だった母方の実家で浴びるように飲んでいました(笑)
カナダドライ ジンジャーエールは、1904年、薬剤師で科学者だったジョン・J・マクローリン氏によるもので、当時、氏はNYブルックリンのソーダ水工場で働いた後、カナダのトロントに炭酸水工場を開いていました。以前より存在していた、昔ながらのジンジャーエールは甘みが強いものでしたが、マクローリン氏のものはスッキリとした苦味のある味わいでした。Canada Dry Pale Ginger Aleのネーミングはその新たな味覚を主張するものでした。
マクローリン氏がカナダドライをNYで売り出すと、すぐにマンハッタンに工場を建設するまでに人気になりました。更に禁酒法の20年代、カナダドライはその大人びた味わいから、アルコールの代替品、自家製混成酒(リキュール)の味隠しとして人気が上昇しました。

ビールとソーダと兵隊

詳細不明の写真。カナダドライ ジンジャーエール味とコカ・コーラ、奥のテーブルとバーにはハムズビールでしょうか。
1stユーティリティを着た兵士が、在ベトナム米陸軍のサブデュードパッチと特技兵(E5)を付けています。USARVのHQはロンビン駐屯地にあったので、もしかしたら撮影地はその付近かもしれません。
野外のこんな感じのバーを見ると、映画「ブラッド・ダイヤモンド」を思い出します。

ビールとソーダと兵隊

カナダドライ オレンジソーダを飲む猿(笑)。当時の写真や記録映像、文書などをみていると、兵士個人のペットや基地のマスコット犬などが存在していたようです。三島軍曹のD446でも、兵士は多種多様の動物をペットにしていたと記述がありました。
ベトナム戦争に限らず、兵士のペットや部隊のマスコット動物の例は多いです。徴兵者も特殊部隊の隊員も多くは20代、30代の若者、厳しい戦地での生活に動物の癒しを求める気持ちもわかります。

ビールとソーダと兵隊

これもカナダドライのブランドで、Winkという名前のグレープフルーツテイストのソフトドリンクです。第1歩兵師団のLRRPとのキャプションでした。逆さまに開けているようです。


ビールとソーダと兵隊

テネシー州メンフィスにある下宿屋。カナドライ"wink"の看板が見える。ジェームズ・アール・レイは、エリック・スターボ・ガルトの偽名でこの下宿二階の一室を借りた。1968年4月4日、レイは共用バスルームの窓から、7.62mm口径、レミントンライフル・モデル760ゲームマスターを使用し、斜向かいに位置するロレイン・モーテルのバルコニーに立っていた、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を狙撃した。

デル・モンテ(Del Monte)


ビールとソーダと兵隊


ケチャップやフルーツの缶詰でお馴染みのデル・モンテもソフトドリンクを販売しており、ルートビア、オレンジソーダ、コーラ、レモンライムなどのバリエーションがあったようです。
デル・モンテの名前の初出は1886年、元は1880年代にカリフォルニア州の卸売業者が、オークランドはモントレー半島のホテル・デル・モンテ向けに特別にブレンドしたコーヒーを指定していたことに始まります。
1898年、西海岸の18もの缶詰企業が合併し、カリフォルニア・フルーツ・カンナーズ・アソシエーション(CFCA)が設立されると、デル・モンテ・ブランドの商品を販売するようになります。現在の有名なトマトのマークは1909年に採用されました。
CFCAは1916年に更なる合併をし、カリフォルニア・パッキング・コーポレーション、通称カルパックとなり規模を拡大していき、第二次世界大戦以降、多国籍企業となり、1967年6月に社名をデル・モンテ・コーポレーションに変更しました。ブランド名が社名になるのはよくある話ですね。


ビールとソーダと兵隊

兵舎の中でしょうか。ラジオを聴いています。金属のメスプレートが立て掛けてある台の下段にコーラ味(?)が置いてあります。

ビールとソーダと兵隊

手前にルートビア味と思しきデル・モンテ缶が転がっています。この土嚢はなんなのでしょうか?すぐ後方に兵舎らしき建物が並んでいるので射撃するわけでもなさそですが・・・一列程度の土嚢では防弾効果は無きに等しいので休憩場所でしょうか(笑)

ビールとソーダと兵隊

カム・ラン空軍基地、ポーカーに興じる米空軍兵士。そしてタバコ。うーん不健康(笑)1967年頃。

さて・・・ソフトドリンクは一段落つきました。休まずアルコールにいきたいと思います。ビア缶はソーダ缶と違い、大幅なパッケージデザインの変更しないようです。これはビールなどのアルコール飲料がソフトドリンク以上にブランドイメージを大切にするものだからだと思われます。ソフトドリンクは全年齢を、特に若者を対象とした飲み物であり、時代の流行に合わせて新しいフレーバーを増やしたりするのに比べて、お酒はある程度、時代に流されない、いつでも変わらぬテイストを保証することが重要視される面があると思います。
そのため、ベトナム戦争中の写真でも、ビア缶はどのメーカーのものも殆ど一貫したデザインと考えてもらって差し支えないです。

バドワイザー(Budweiser)

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「キング・オブ・ビール」。バドワイザーは1876年、アドルフ・ブッシュにより創り出され、今日でも変わらない高水準で醸造されています。
バドワイザーは、ミディアムボディー、香り高くキレのあるアメリカン・ラガーです。最高の大麦麦芽と高品質なホップから醸造されます。バドワイザーは、「前向きで明るく賑やか」という、アメリカ人の価値観の核の一つの象徴です。
(バドワイザー公式ページより)

超有名ブランドです。知名度、流通量ともに世界屈指のビールです。ベトナム戦争中の写真でもよく見かける銘柄の一つに数えられます。
フラットトップのバドワイザー缶に、チャーチキーで飲み口を開けています。こんな風に缶の上面が綺麗に写っているものは珍しく、開栓中の動作を切り取っているのも貴重だと思います。

ブルーリボン(Blue Ribbon)

パブスト社の有名なビール。パブスト社は1844年、ドイツ移民のジェイコブ・ベストとその息子のフィリップによって、ミルウォーキーに創業された、エンパイア醸造社が前進となりました。エンパイア社は、フィリップ氏の義理の息子であるフレデリック・パブスト氏に、蒸気船を使いビールを輸出させ、1872年には全米第二位の醸造社に成長しました。後にパブスト氏は社長に就任します。パブスト社に社名を変更するのは1889年のことでした。
パブスト社のビールは1882年に国際コンペティションで賞を獲得し、この頃より、ボトルの首に青いリボンを巻き始めます。そして1898年、自社のビールの名称を公式に「パブスト・ブルーリボン」に変更します。


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第23歩兵師団第11軽歩兵旅団。

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第616医療中隊(cleaning)。1965年、ロンビンの第93後送病院近くのテントとのキャプション。ですが、616医療中隊だとすると、第44医療旅団第67医療グループ(連隊)隷下であり、44医療旅団のベトナム派遣は1966年4月からなので(Face Book公式ページより)、多分に怪しい情報と思われます。旅団司令部がロンビンだったのは間違いではないようです。

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プルタブ式の飲み口に見えなくもないです。

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1968年頃。認識票を黒いビニールテープで纏めているようです。缶のデザインがよく確認できます。

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前列左端の人が第23歩兵師団のサブデュードSSIを付けているようです。

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仲良し三人組。ブーニーハットに第5軍のパッチと上級曹長のシェブロンが縫い付けられています(イケイケです)。チャーチキーか缶きり、ナイフ様のもので開けられていそうです。

ブラックラベル(Black Label)

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カナダのカーリング醸造社(Carling Brewery)のラガービールです。カーリング社の起こりは1818年のアッパー・カナダに遡ります。アッパー・カナダーとはカナダのイギリス植民地で、現在のオンタリオ州にあたりますが、ここのロンドン(オンタリオ州ロンドン。英国ロンドンから名前をとった)にイギリス、ヨークシャーの農民トーマス・カーリングとその一家が移住してきます。カーリングはエールビールを醸造し通りで販売しはじめると、人気が出たため酒造に注力するようになります。
1840年、カーリングは企業として小さな醸造所を創業し、ロンドンに駐留する軍隊にビールを販売しました。1879年、醸造施設が火事で焼失、トーマスが肺炎で死去するなど困難に見舞われながらも、事業は二人の息子に引き継がれ、拡大されました。カーリング ブラックラベルは1920年代に発売され、イギリスを始め世界的に人気のビールとなりました。
ナム戦写真でも、鮮やかなオレンジ色の地にブラックラベルをあしらった缶をよく目にします。


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第1騎兵師団の兵士たち。上段右端の人が、北ベトナム軍のものと思われるピストルベルトを腰に巻いています。北ベトナム軍の装備品と年代の相関関係は詳しくないので、こういった写真は非常に助かります。

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第545憲兵中隊のクラブ、ということは第1騎兵師団でしょうか。1966年アンケ。クリスマスパーティーのようです。

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1971年キャンプ・エヴァンスにて。第101空挺師団第506空挺歩兵連隊第2大隊A中隊。缶の上下に白い線が入っており、少しデザインに差異が見られます。これがデザイン変更なのか、サイズ(内容量)の違いからくるものなのかは分かりません。ただ、大きさは通常の12oz缶に見えますので、パッケージデザインに変更があったのかもしれません。

シュリッツ(Schlitz)


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ナム戦期ビア缶のなかでも最もよく目にする銘柄の一つです。シュリッツビールは1849年、ドイツ移民のアウグスト・クルーグがミルウォーキーで営業していたレストランで醸造を行ったことが始まりでした。
1850年、同じくドイツ移民の20歳の青年がクルーグに雇われます。彼の名はヨーゼフ・シュリッツで、レストランの経営と醸造所の簿記をまかされました。1856年、クルーグが死去すると醸造所を引き継ぎ、その2年後クルーグの未亡人と結婚し、醸造所の名前をヨーゼフ・シュリッツ醸造社に変更します。
1900年代から70年代中頃まで、シュリッツ社はアメリカで1位、2位を争うビールメーカーでした。70年代初頭より、生産性とコストカットを重視し製法を変更したことにより味が落ち、また広告戦略の失敗と度重なる従業員ストライキにより、会社の体力は落ちはじめ、1982年ストロー醸造社に買収されます。買収後はシュリッツブランドは市場から消えてしまいますが、1999年にパブスト社がストロー社よりブランドを買い取ると、シュリッツ缶ビールのリバイバル品が発売されるようになり、現在に至ります。パブスト社は60年代の失われたシュリッツビールの味を再現すべく、当時の醸造所監督やテイストテスターへの取材を重ね再発売に漕ぎ着けたそうです。

写真はマイクフォースの軍事顧問とマーサ・レイ女史です。

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右端の人はFOB2、FOB5、CCSのSOG OP35偵察隊員として有名なジム・ボーレン氏です。写真は氏がバンメトートに異動した後のRT AUGER(オーガー。手回しドリルのこと。南部指揮統制の偵察チームの名前は道具や天気、無生物からとられた。)時代のものと思われますので、1968~69年撮影のはずです。コーク缶も60年代のハーレークィーン缶です。

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こちらもOP35隊員。OP35というのはSOGの地上作戦部門のコードネームで、OP35隊員はアメリカ合衆国陸軍特殊部隊 第5特殊部隊群所属の特殊部隊員で構成されます。彼らは所謂グリーンベレーで軍事顧問ですが、何の顧問(アドヴァイザー)なのかというと、OP35においてはベトナム共和国陸軍特殊部隊NKT "雷虎"付きということになります。
写真の人のファティーグの左胸ポケットのパッチが"雷虎"部隊の部隊章です。SOGに限らずアメリカ人軍事顧問は派遣先の部隊パッチをポケットに縫い付けたり、ハンガーパッチにしているのを確認できます。雷虎の一部少数民族を含むベトナム人特殊部隊員は、実際の所属隊員なのでSSIとして左肩に付けます。
このあたりはもっと詳しく説明されているブログ様もおられますので、このあたりにしておきます。
http://nktlittlesaigon.blogspot.jp/2014/07/oan-lien-lac-va-chien-oan-xung-kich.html
気になる方はこちら↑をどうぞ。元南ベトナム軍ベテランの方のサイトなので、一次情報と言っていいと思います。非常に細かく書かれていて、英語略称との比較もできますので、ロゼッタストーン代わりにどうぞ。

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チャーチキーで開けているようです。


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夜間パトロールを終え朝食をとる空軍偵察犬(K9)部隊。1969年カムラン湾。

フォルスタッフ(FALSTAFF)

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フォルスタッフビールは米国の主要なビールの一つです。元はドイツ移民のヨハン・アダム・レンプ氏が1840年にセントルイスに創業したレンプ醸造社が始まりでした。レンプ社は1921年に廃業し、ブランドをグリースディーク飲料社に売却し、グリースディークは社名をフォルスタッフ社に変更しました。フォルスタッフは1960年代においては全米第3位の酒造社でした。現在はパブスト社がブランドの権利を保有しているようです。

写真は第101空挺師団。右端の兵士がフォルスタッフを持っています。69年頃だと思われます。

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これは裏面のデザインがよく確認できます。チャーチキーで開けられています。白飛びしていますがフラットトップだと思います。逆さまではないです。

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マイクフォースのCIDG隊員。他にミラーズビールも写っています。

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キャプションでは、1968年クアンチ省ドンハとなっていました。ドンハは南ベトナム北端、DMZから僅か10kmに位置する街で、アメリカ海兵隊、陸軍、ベトナム共和国陸軍が駐屯するドンハ・コンバットベースがありました。

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撮影年不明。手前には60年代のペプシ缶が、奥にフォルスタッフ缶が見えます。ペプシはチャーチキーで開けられています。分かりずらいですが、開口部が鋭い三角形になっています。フォルスタッフ缶ですが、ファンタブとも呼ばれるジップトップにも思えます。白黒写真で缶自体も遠いので勘違いの可能性もありますが・・・

ミラー(Miller)


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1855年、フレデリック・ミラー氏がプランク・ロードという小さな醸造社を買い取り、ミラー醸造社を設立しました。ミラー氏は前年の1854年に独自の酵母菌を手にアメリカに渡ったドイツ移民でした。
ミラー醸造社はベトナム戦争の期間中に二度の買収があったようで、1966年、反アルコールの立場だったミラー氏の孫娘により、W.R.グレース社(化学工業複合企業)に売却され、69年にはフィリップ・モリス社がペプシ社に競り勝ち買い取りました。

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中隊当直下士官詰め所での記念撮影。1970年。

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101空挺師団506連隊2大隊A中隊。キャンプ・エヴァンス。1971年。

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BWN(ブラウン・ウォーター・ネービー)河川分隊535。1969年。

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75連隊K中隊。左の人はLarry Flanagan氏で1968年10月22日~69年10月21日の期間で従軍されたようです。

バランタイン(Ballantaine)

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P.バランタイン・アンド・サンズ醸造社は1840年、ニュージャージー州ニューアークにスコットランド移民のペーター・バランタイン氏によって設立された会社で、米国で最も古いビール製造会社で、最盛期には全米第3位のきぼを誇っていました。1960年代に入ると経営が傾き始め、1972年にフォルスタッフ社に買い取られることとなりました。現在はパブスト社がブランドを所有しているようです。それもあってか、写真で見かけることは稀です。


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第1騎兵師団第8工兵大隊B中隊の兵士。LZアップリフトにて。1967年夏。手前の人のTCUは2ndパターンと思われますが、ライフルはフラッシュハイダーからして、M16A1に更新されているのかもしれません。


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海兵隊一等兵。この方は67年5月27日に戦死されているので、撮影はそれ以前と思われます。珍しくフラットトップでなくプルトップです。

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本部及び本部付き中隊、大隊付き救護施設中隊(HHC Battalion Aid Station)衛生兵。67~68年。

クアーズ(Coors)
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写真はツイッターフォロワーさんからの頂き物
クアーズ醸造社は、1873年にドイツ移民のアドルフ・クアーとプロイセンからの移民、ジェイコブ・シュエラーにより、コロラド州ゴールデンに創業されました。。現在はモルソン・クアーズ醸造社と名前を変え、世界第3位の醸造会社となっており、ゴールデンの醸造施設は単一のものとしては世界最大だそうです。また、クアーズは1959年にビール会社としては世界で始めて、2ピース構造の全アルミ製の缶を採用しました。また同年に、それまで使用されてきた低音殺菌をやめて、殺菌濾過法を取り入れたのも世界初でした。

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UH-1のMk4 FFARロケット弾発射ポッドに上手に描かれています。当時の写真では同じように、バドワイザーやブルーリボンのラベルデザインを模した発射ポッドをよく目にします。クアーズビールは有名ブランドですが、現在見つけられた写真はこれだけです。

ハムズ(Hamm's)


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セオドア・ハムズ醸造社は1865年、ミネソタ州セントポールに、ドイツ移民セオドア・ハムにより設立されました。もともとは友人でビジネスパートナーだったA・F・ケラーが設立した、エクセルシオール醸造社が思うように融資を受けられず、ハムと資本提携したのが始まりでした。その後、ケラーがカリフォルニアの金鉱に一攫千金を求めるも命を落としてしまい、ハムが会社を引き継ぐことになりました。
1860年代といえば西部開拓時代(1890年にフロンティアの消滅と共に終焉を迎える)真っ盛り、65年は南北戦争終戦の年であり「金ぴか時代」と呼ばれた、アメリカにおいて資本主義が急速に拡大し始めた頃でした。アメリカの人々はあらゆる可能性を信じてアメリカンドリームを追い求めていた時代でもありました。アメリカ大陸には、まだまだ未踏の地フロンティアが広がっており、過酷な自然、無法者、病、またインディアンとの争いも激しく、チャンスの裏には死の危険が隣り合わせていました。酒造会社に限らず、この時代に創業し今も世界有数の企業として存続しているアメリカ企業が多くあるのは感嘆します。
ハムズビールは綺麗なブルーに白のクラウンの非常に美しいデザインです。

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フバイのキャンプ・イーグル。1968年。

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CIDG兵士と第5特殊部隊軍事顧問。この写真だけでは判断できかねますが、マイク・フォースでしょうか。ユーティリティーシャツが2ndパターン(DSA64、シャツ袖、ボタンの縫いつけピッチが等間隔、ポッケの位置が下がり気味など)に見えます。フォルスッタフも写っています。

フォスターズ・ラガーとビクトリア・ビター(Foster's Rager & Victoria Bitter)
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オーストラリアのビールです。フォスターズはウィリアム・M・フォスターとラルフ・R・フォスターによって創業されました。二人はアイルランド系アメリカ人の兄弟で、1886年にニューヨークからメルボルンに移り住み、1888年11月にラガービールの醸造を開始しました。翌年2月には発売を開始し、1901年にボーア戦争参戦中のオーストラリア軍に送ったのが初の海外輸出でした。
ビクトリア・ビターはカールトン・アンド・ユナイテッド醸造社(CUB)のラガービールです。でもよく見るとフォスターズの方にもCUBのロゴが入っているのが確認できると思います。これはCUBが、フォスターズ、ビクトリア(VBは元々この会社のビール)、カールトン、シャムロック、キャッスルマインの五社による企業連合、メルボルン醸造組合だからだと考えられます。
クリーム色に赤文字の缶はキャッスルマインのようです。変り種のシュウェップスも確認できます。シュウェップスの歴史はとても古く、1783年にドイツ人のヨハン・ヤコブ・シュヴェッペ(英語読みでシュウェップ)がジュネーブで炭酸飲料を売り始めたことに端を発します。1792年にはロンドンに会社を移し事業を拡大します。恐らく最古の炭酸飲料メーカーと思われます。1969年にはイギリスのお菓子メーカーのキャドバリーと合併しているようです。


あとがき

ホッと一息
ミリタリー趣味を始めて以来、軍装のための資料として当時の写真をインターネット検索、SNS、本などを用いて収集してきました。その中で、実際の戦闘中の写真というものは実のところそれ程多くありませんでした。前線において一兵士がカメラを持ち込むことは許されていなかったでしょうし、また仮に持っていても撮影などする余裕はなかったと考えられます。戦闘中の写真の多くは報道写真家によるもので、ニュース資料としての価値は一級品であれど、報道写真としての性質上、当時のマスメディアによるバイアスがかかっていたり、緊迫の状況下ゆえに得てして軍装趣味者の欲する構図でなかったりします。また危険な状況が落ち着いた後の写真も多いようです。
戦闘状況下でない写真については兵士のプライベート写真が多く残されています。軍装的観点から見ると、装備品の組み付けや、フルロードの装備を参考するにはとても役立つ資料になると思われます。そんなプライベート写真ですが、最も多く目にするのは基地、兵舎でくつろぐ兵士たちの日常の情景です。1年、365日の従軍生活のうち常に戦闘に参加しているわけではなく、むしろその他の時間の方が圧倒的に長いので、これは当然かもしれません。
もちろん軍装だけを目的としていないので、求める構図や状況でない写真でも資料として収集しているのですが、同時にここ数年、プライベート写真を興味深く観察してきました。そういった写真の中でも兵士たちの団欒を写したものの数は圧倒的で、そして相当な確率で、今回の主題として扱ったビールやソフトドリンクを手にしているのです。記事で紹介してきた写真はそのうちのほんの一部です。

お買い物
当時、兵士たちはビールやソフトドリンクをどこで手に入れていたのでしょうか?調べていくと、まずは陸軍PX(ポスト・エクスチェンジ)、空軍BX(ベース・エクスチェンジ)が第一に。PX/BXはAAFES(Army and Airforce Exchange Service)により運営される軍人向け売店です。売店と言っても扱っているサービスは多岐にわたり、異国の地で働く軍人が日常生活を送るのに不便ないようになっているようです。海外派遣の場合は単なる日用品に留まらず、車や船と言った大型商品も扱うようで、中でも人気だったのは当時はまだ高級品だったオープンリール(リール・トゥ・リールとも)だったようです。これらはカタログから欲しいものを選び、アメリカ本国に送ってもらう形式を取ったようです。
戦地においてこれ程までの規模でサービスを提供できるあたり、アメリカという国の物凄さを感じます。しかし、このような大きな買い物は取り敢えず置いておいて、普段兵士たちのが買い求めるものは、日々消費していく日用雑貨品や嗜好品が大多数だったと考えます。
そして、その嗜好品の代表格がタバコとアルコール(もしくはソフトドリンク)でした。ベトナムベテランの証言ですが、1969年のPXでタバコ一箱10セント、1カートン2ドル、24缶入りビアケース2ドル40セント。同じく69年のベトナム派遣陸軍一等兵(E-3)の月収は、海外派遣手当65ドル+戦闘手当30ドル+基本給200ドルの約300ドルだったようです。
当時は固定相場制で1ドルは360円、昭和40年代の物価は現在の1/4ほどですから、タバコは一箱144円、ビアケースは3,456円、E-3の給料は43万2000円といったところでしょうか。タバコが安い気もしますが、当時は日本も一箱このくらいの値段だったようです。
他の入手経路としては移動PXというのもあったようです。これは雑貨品、日用品を積んだトラックやワゴンが受け持ちの地区の基地を廻るもので、AAFESの業務の一つでした。また火力支援基地などには、ヘリコプターを利用したフライングPXが月に一度ほど訪れていたようです。
そして最後はベトナムの街や市場などの売店、行商人です。当時のベトナムの街を写した写真には所狭しと雑貨品を並べた商店、それを見て回る米軍人、共和国軍人の姿が見られます。
移動PXの話をしていたベテランによれば、ロックアイスを売っている場合もあり、アモ缶に氷を詰めて缶ビールを冷やした事もあったそうです。通常のPX/BXでも氷は売っていそうですが、タイミングや時間がないと氷は溶けてしまいますし、いつでも冷えた飲み物にありつけるわけではなさそうです、外気温と同じくらいぬるいビールというのは、ベトナム戦争一つのアイコンとなっているようです。

ビールとソーダと兵隊

AAFES。PX/BXではベトナム人も働いていたのではなかろうかと思います。

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ダナン空軍基地のフリーダム・ヒル・エクスチェンジ。69年に北ベトナムのロケット攻撃で破壊された。

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移動PX、お洒落パンツにーちゃんズ。紙パックの牛乳を飲んでいる模様。

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バドワイザーを片手にオープン・リールで音楽でも聴いているのかもしれない。

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街の商店。ペプシ缶、缶入りリッツ、酒、タバコなどが並びます。手前の紙袋に積み込まれた赤と黄の箱は、Tideという洗濯用洗剤かとも思いましたが、断定はできませんでした。

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露天で売られるコカ・コーラ。一つだけシュリッツが混ざっています。

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キンキンに冷えたビールはなにより最高!だったようです。

缶は年代特定に使えるのか

当時の文化や風俗にも興味があり、ドリンク缶について調べてきましたが、それとは別に缶のデザインによってミリタリーフォトの年代を推定できるのではという考えもありました。結論から言うと、それは少し難しいかもしれません。缶のデザイン、特にビア缶のデザインは滅多に変わるものではなく、また変更があっても正確な年月日の情報はなかなか出てこず、出てきても確固たる証拠が掴みづらいのです。
しかしながら全く役に立たないわけでもなく、写真の他の情報(キャプション、装備品、その部隊の派遣期間等)の補助としてドリンク缶デザインを使ってあげると良いと思います。ドリンク缶デザインは動かぬ証拠には間違い無いので、年代測定の精度を高める一要素として扱えると考えます。これから更に写真や情報を集めていくうちに、その精度が月単位くらいになったら良いなと思っています。

缶はどうやって手に入れるか
ミリタリーヒストリカルイベントなどにおいては、当時ものの空き缶は雰囲気を盛り上げるのに有効なアイテムかもしれません。知人に譲ったりして量は減りましたが、僕も一時期やたらと集めていました。海外ではビンテージの缶コレクトが本邦よりも趣味として根付いていて、専門ショップやウェブページ、ミュージアム、凹んだ缶を治すサービス、果てはレプリカまで存在します。そういう訳で海外オークションebayやpaypal対応缶コレクターズショップなどで購入するのが確実です。何しろ無数のブランドの缶がありますので、自分の欲しい年代の缶の写真と睨めっこしつつ検索してみて下さい。60年代以降でしたらvintage 、old、flat top、pull top(tab)、zip top(tab)、fan tab、beer、soda、popなどの補助ワードや西暦、ブランド名と組み合わせつつ頑張ってみて下さい。缶の希少度にもよりますが国際配送料金と合わせても2,000〜6,000円もあればお釣りがくると思われます。

大きな問題
一つビンテージ缶の問題があります。今まで見てきた通り、ベトナムの戦地で飲まれているドリンク缶はフラットトップの比率が高いのです。歴史的にはプルトップの時代になっているので、ベトナムにおけるフラットトップ缶の存在は謎です。基本的にアメリカからベトナムへは船便で運ばれてベトナム国内では陸路か空路になると思われますが、この輸送行程に対して当時のプルトップ缶の強度が不足していたのか、民間向けほど利便性を必要とせず省力生産したのか、理由は定かではありません。
現在インターネットオークション等で手に入るドリンク缶は、たとえ同年代のものであってもプルトップ式が多数を占めます。バドワイザーなどはフラットトップが手に入りますが、ベトナム戦争で見られるバド缶は側面の繋ぎ目がファスナー状(zip canと呼ばれる)ですが、なかなか見当たらず直線の繋ぎ目の物が多いです。
この辺りはプルトップ缶の例があるものは問題ないですが、そうでないものは折り合いをつけるしかなさそうです。

参考サイト
http://www.mrfa.org/us-navy-army/beer-soda-available-during-the-vietnam-war/
http://publicaffairs-sme.com/PatriotFamily/wp-content/uploads/2016/03/My-Favorite-PX-in-Vietnam-Essay-Collections1.pdf
https://usastruck.com/tag/vietnam-war-pay-rate/
http://justcommonsense-lostinamerica.blogspot.com/2013/04/battlefield-vietnam-great-beer-strike.html?m=1
http://publicaffairs-sme.com/FamilyServingFamily/2018/03/28/by-the-numbers-10-years-in-vietnam-serving-troops-until-the-last-day/

face02最後まで読んでいただき、有難うございましたface02
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Posted by ふらっととっぷ at 04:22│Comments(4)ベトナム戦争
この記事へのコメント
これからの考証に参考にさせていただきます。
Posted by 通りすがり at 2018年09月19日 08:54
いろんな意味で勉強になりました。
ちっちゃい缶切りで小穴を開ける缶ジュースはアラフィフの私にもわずかな記憶があります。
不便=古いという考えで、これがプルタブ以前のものだろうとは思ってました。
それにしても初期の缶ビールはフタが王冠だったのは驚きでした。
最近出てきたボトル缶は先祖帰りですねw

それと…ビール缶が描かれたロケット弾ポッド。
某アニメ映画に出てきた缶チューハイミサイルは整備班の遊び心なのでしょうw
酒も文化だよという。
Posted by 引退した人 at 2018年09月19日 11:07
通りすがり様

ありがとうございます。何かのお役に立てば幸いです。
Posted by ふらっととっぷふらっととっぷ at 2018年09月20日 10:35
引退した人様

コーントップは飲料用と言うよりはまるでオイル缶のような見た目ですね。
確かに、デザイン性重視なあたりも最近のボトル缶は同じ方向性かもしれませんね!

古い方のマクロスですかね~笑
大砲の弾や爆弾に文字書くノリですね。
Posted by ふらっととっぷふらっととっぷ at 2018年09月20日 10:40
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