QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 3人
プロフィール
ふらっととっぷ
ふらっととっぷ

2017年03月09日

RPD軽機関銃



RPD軽機関銃
                     
                     
北海道。礼文島沖15km。2017年2月17日未明。例の物の受け取りを行う。密輸人はいつもの船長だ。
密輸船の名前は「チョーリェン・コット・ヤポニヤ号」。海上臨検対策でブツは分解状態で船底に隠される。
未だ明けやらぬ寒夜の残月が、防錆グリース塗れの金属部品を妖艶に光らせる...。


はい...お馬鹿な話は置いときまして。世間では「けものフレンズ」というアニメが流行っているようです。かくいう僕も、ここ最近はアニメはミリタリ物やドンパチガンアクション系しか観ていなかったのですが、はまってしまいました。
 珍しく浮世の流行に乗っている僕ですが、今回の記事は少し遅ればせながらLCT RPDのお話です。台湾のLCTエアソフト社がRPD電動ガンの開発を発表したのは去年の2月位だったかと思います(Face BookのLCT社のページを見た感じ)。わが国でも随分と話題になり、僕もTwitterやトイガンショップのブログなどで情報を追いかける日々でした。メーカーのアナウンスでは10月出荷予定でしたが、そこはトイガン業界特有の発売延期で実際に手にしたのは1ヶ月後のことでした。




RPD軽機関銃

届いた当日に撮影した写真です。実銃はソ連製で、冷戦期のソ連邦の衛星国、共産主義国家に供与およびライセンス生産され、また今日においても、AKライフルと同じく世界中の紛争地帯でその姿を見ることができることもあり、トイガン化を待ち望んでいた方も多かったと思います。
 ベトナム戦争でも北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線によって、ソ連製、中国製56式軽機関銃が使用されました。南側でも米国とベトナム共和国の陸軍特殊部隊によって鹵獲武器として少数使用されました。



アメリカ及びベトナム共和国陸軍特殊部隊におけるRPD軽機関銃の使用
 
RPD軽機関銃

1969-71年まで25ヶ月間、CCC(中部統制司令部)所属のRT NY(リーコンチーム・ニューヨーク)で1-0(チームリーダー)として参加した、エド・ウォルコフ氏(写真向かって左)。SOGのソウドオフRPDの中でも珍しい、少し長いバレルレングスです。銃に付けたマガジンに100発、RPDドラムマガジン用に特別にあつらえたポーチ二つに各100発ずつ。キャンティーンポーチ2つに各100発ずつ。計500発を携行したといいいます。CCCのRTらしくレギンスを着用しています。降雨後の熱帯雨林の木々の主茎(しゅけい)と土壌は黒く、ブラックファティーグは迷彩服として矛盾するものではなかったようです。


RPD軽機関銃

CCC RT COLORADO所属のフランク・グレコ氏。1969年夏頃撮影。

RPD軽機関銃

ポーズをつけるRT CALIFORNIAの隊員。こちらも長めのカットの銃身です。右胸のパッチはタイ王国軍の降下章に見えますが、断定はできません。また撮影年は不明ですが、同隊員がコントゥムのUSOクラブの前でチームメイトと集合写真を撮っており、3rd TCUの着用者やサブデュードパッチの感じ、そしてネームテープを胸ポケットに沿って縫い付けている隊員がいるため、69年9月以降と思われます。

RPD軽機関銃

ラオス領内にて川を渡るCCC RT WYOMING。写真最後方の隊員がXM177E2を所持しており、また手前のRPD持ちの隊員の左肩にはXM28ガスマスクポーチが取り付けられています(一連の写真でもっとハッキリと写っている)。また、写真のキャンプションにはCCCとありました。以上のことから、撮影年は早くても1968年11月以降と思われます。

RPD軽機関銃

同じくワイオミング。1970年撮影。

RPD軽機関銃

作戦から帰投したRT DELAWARE。TF2AE所属なので1971年3月下旬から72年5月1日までの間に撮影されたものと思われます。CISOグローブらしき手袋をはめています。

RPD軽機関銃

RT MONTANA。1969か70年頃撮影。
SOGのRPDの一番目立つところは、やはりガスブロック近くまでバッサリ切り詰められた銃身でしょう。銃身が短くなることにより、多少の軽量化とハンドリング性の向上が見込まれ、ジャングルで長期の隠密作戦をし、接敵時は弾幕を張って撤退する必要があるRTには好評だったようです。防御用ではなく、捕虜獲得やアンブッシュ作戦などでは、二脚によりしっかり保持でき、殺傷力や射程に優れるM60を使用するのが現実的と思います。SOGの偵察チームではM60機関銃も使用されました。RPDがその代替案であったのかは分かりませんが、M60の重量10kgに対して、RPDの重量7.5kg、発砲音やシルエットで敵の混乱を期待できる部分は大きな優位性であったと思います。
 例を挙げていくとキリがないのですが、SOGにおけるRPDの使用例は69年以降が多いようです。1968年の夏から11月下旬にかけて各地のFOB(前進作戦基地)が改変または閉鎖され(ジェイソン・ハーディー氏のMAC V SOG TEAM HISTORY OF A CLANDESTINE ARMYによれば、1968年8月)、FOB2コントゥムがCCC、FOB5バンメトートがCCS、FOB4ダナンがCCNとなり、同年12月(不確実な情報により訂正/2017年5月26日)より、シャイニング・ブラス作戦(対ラオス越境作戦)がプレーリー・ファイア作戦に、ダニエル・ブーン作戦(対カンボディア越境作戦)がセーラム・ハウス作戦に名称変更となったのですが、そもそも、これより前の、つまり68年以前の写真や情報というのは一気に少なくなります。インターネットのgoogle画像検索程度でヒットする写真は高確率で、有名な三つのC&C(統制司令部)設立後、乱暴に言ってしまえば1969年以降のものばかりです。
 やっぱりお金は掛かりますが、ちゃんと書籍等を購入し、研究する必要があると思います...がんばります(笑)。僅かばかりの所蔵書籍やネットで発見した68年以前の写真を見ますと、RPDの使用例は確認できませんでした。67年以前ともなりますと、XM177E2は勿論使用例はなく、特に67年初頭まではスェーデッシュK短機関銃の使用が見られます。少しするとXM177E1も使用され始めます(陸軍への引渡し終了は67年3月とされている)。これはベトナムにおける北ベトナムによる、米軍兵器の鹵獲数が増え、武器(あるいは装備も?)の消毒(国籍の不可視化)に、以前ほど敏感にならなくて済むようになったからという説があるようです。しかしながら67年4月開始のダニエル・ブーン作戦の作戦エリアはカンボディアですので、この限りとは言えないと思われます。また、よく聞かれる話ですが、カールグスタフの使用をスェーデンがアメリカに抗議した点も関係しそうです。

※記事中に採用した情報は、複数の資料を照らし合わせたものですが、年月日は特に資料によってブレが多く、間違いがあった場合、随時訂正いたします。

※もし68年以前にSOGにおけるRPDの使用例をご存知の方がおられましたら、是非お教え頂けると嬉しいです。

ベトナム民主共和国におけるRPD軽機関銃の使用

RPD軽機関銃
RPD軽機関銃

RPDはNVAやNLFの主力分隊支援火器だった。
NLFの分隊は、軍曹1名、伍長1名、RPD射手1名、小銃手6名から構成されました。とは言うものの、いったい何年くらいから使い始めたのか、という情報が手に入りませんでした。北ベトナムの写真は見つかれど、米軍や南ベトナム軍のように年代の注釈があるものは少なく、僕自身に知識がないのも相まって写真からの年代特定も困難でした。ですので以下は、少ない情報と、僕の貧弱な想像力による予想になります...

ソビエト社会主義共和国連邦と中華人民共和国の対越軍事支援

RPD軽機関銃RPD軽機関銃RPD軽機関銃RPD軽機関銃RPD軽機関銃

1950年初頭より、建国まもない中華人民共和国はベトナム共産主義の援護者だった。
日本国外務大臣、重光葵が戦艦ミズーリ甲板上で降伏文書に調印した1945年9月2日、ベトナム民主共和国が独立宣言をしホー・チ・ミンは国家主席兼首相に就任しますが、フランスは植民地主義を捨てられず、第一次インドシナ戦争が勃発します。毛沢東を国家主席に据える中華人民共和国は1950年1月18日にベトナム民主共和国を承認します。同年同月、ホーはフランスとの戦争の為、ソビエトからの軍事援助を求め北京を経由し、毛と共に秘密裏にモスクワ入りしました。
 しかしながら、スターリンの関心はヨーロッパ、東欧の共産主義革命運動の手綱を取ることに向いており、ホーの申し入れは受け入れられませんでした。スターリンは毛に、ベトナムへの援助は中国が受け持ち、それでも足りなければソビエトからの中国への援助物資をベトナムに回せばよいと提案し、ヨーロッパはソビエトが、アジアは中国がそれぞれ革命運動のイニシアチブを握るという指針を示したのでした。ソ連は1月31日、ベトナム民主共和国を承認します。
 1952年、その地政学的理由から、ソビエトにより最重要衛星国として見做されていたポーランドは、人民共和国憲法の制定、ポーランド統一労働者党が一党独裁を完成させ、ポーランド人民共和国として成立します。これにより東ヨーロッパにおける一つの懸案が解決されたこと、翌年3月のスターリンの死は、ソビエトの関心を徐々に東南アジアに向かせることとなりました。
 1954年5月7日、ディエンビエンフー要塞が陥落し第一次インドシナ戦争でのフランス軍の敗北が決定的になります。これを受け翌日、インドシナの混乱収束に向け、ベトナム民主共和国(ベトミン)、フランス、ベトナム国(※1)、ラオス及びカンボディア(※2)、アメリカ、イギリス、ソビエト、中国の9カ国が討議を開始します。この討議の決着は今日、ジュネーブ協定として知られています。協定はベトナム、ラオス、カンボディアのインドシナ三国間の休戦協定3、参加各国政府各々の宣言9、最終宣言の合計13通の文書から構成されましたが、後の第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)の遠因とも言える部分があり...

軍事衝突回避の為、北緯17度線と9号公路の間に暫定的な軍事境界線を引き、その南北に幅5kmの非武装地帯を設け、両勢力のあらゆる軍事勢力、物資を撤去し、ベトナム民主共和国は北側、フランス連合軍は南へと撤退する。
国際監視委員会の監視と管理下のもと、1956年7月に統一総選挙を行う。

...というものでした。ジュネーブ会議(1954年4月26日~7月21日)は冷戦下の大国の思惑によって開かれたものでしたが、第一次インドシナ戦争の戦勝国として、また大日本帝国による進駐、ナポレオン三世時代よりのフランスの植民地化、それ以前の歴代中国王朝による属国化と苦難の歴史を歩んできたベトナム人にとって、民族自決、統一、領土復活は悲願であり、何者にも変えられないものでした。
 ホーは共産主義者であると同時に、もしくはそれ以上に民族主義者でした。彼の側近でありジューネーブ会談のベトミン代表、ファム・ヴァン・ドンは当初より、和平交渉において強硬姿勢を取りましたが、ソ連と中国の説得により軍事境界線の設置と国際停戦監視団の派遣など、最終宣言に同意するに至りました。この件に関して、ソ連の軍事戦略家から停戦期間中に政府内の権力統合、経済政策の改善、軍備の再編をすべきという提言があったようです。また、アメリカ合衆国は1950年8月2日にMAAG VIETNAM(米軍事援助顧問団ベトナム)を設立しており、ソ連は、なによりもベトナムをはじめとしたインドシナにおける米国の活動と関与、それに対する自身の対応をいかにするかということに腐心していたと思われます。こうしてベトナム共和国の妥協によりジュネーブ協定が締結されますが、アメリカ及びベトナム国は最終宣言に調印せず、べトナム国は休戦協定にも反対の意思を示しました。大国主導の政治、思想に基づく投機と権力外交は、ドイツ、朝鮮に続きベトナムも分断国家としてしまいました。

※1:ベトナム民主共和国に対抗し、1949年、フランスがベトナム最後の王朝阮朝の最後の皇帝、バオ=ダイを擁立して樹立した。
※2:フランス連合軍はフランス兵、ベトナム・ラオス・カンボディア兵・外人部隊から構成されていた。

RPD軽機関銃RPD軽機関銃
ファム・ヴァン・ドン/Phạm Văn Đồng(写真左)。ジュネーブ会議(写真右)。

1964年8月2、4日のトンキン湾事件、65年米国海兵隊のダナン上陸からはじまるアメリカのベトナム本格的介入は、中国の対越支援の増大に拍車をかけました。65年には北京政府は北ベトナムに数千人のエンジニアを派遣し、道路、鉄道、滑走路などのインフラ、防衛施設の建設と修復を支援しました。65年から71年の間に、北ベトナムには延べ32万人以上の中国軍隊が配備され、ピーク時の67年には、北ベトナム国内には約17万人の中国人がいました。 軍事施設で彼ら軍事顧問やエンジニアが活動するということは、アメリカの北爆に巻き込まれるのは当然であり、1960年代後半には北部で推定1000人の中国人が死亡しました。 また中国は、軍用トラック、戦車、各種大砲を含む大量の軍事物資をハノイ政府に供給しました。
 北ベトナムに対するソビエトの援助は、1950年代から60年代初頭にかけて微々たるものでした。ソ連は、ハノイに情報、技術顧問を提供しましたが、ソ連邦最高指導者ニキータ・フルシチョフは、自身の掲げた集団主義に反し、個人主導の内政と権力の維持に奔走し、西側との平和共存の姿勢を取ったため、ベトナム問題に関わることを避けていましたが、トンキン湾事件の直後、1964年10月に失脚します。
 次に首相に就任したアレクセイ・コスイギンは、主にフルシチョフ時代の反動により増長したソビエト軍の強硬派を収めるために、自身の権力と発言力の向上を欲しており、 1964年11月に、南ベトナム民族解放戦線(National Liberation Front:NLF)へ支持のメッセージを送り、新年の北ベトナムへの公式訪問を発表します。コスイギンは、1965年2月、ハノイにてベトナム労働党とNVA指揮官のメンバーと会合をおこないます。会合ではソビエトによる、北ベトナムに対する財政援助と軍需物資提供及び軍事顧問の派遣の防衛条約の調印が行われました。 コスイギン派遣団の公式声明は次のようになっています。

「南東アジアの社会主義陣営の前哨基地であるベトナム民主共和国(DRV)は、対アメリカ帝国主義闘争において重要な役割を果たしており、アジアや世界の平和の防衛に貢献している。ベトナム、ソビエト両政府は、1965年8月5日の米国の積極的な行動、特に1965年2月7日と8日の北ベトナム領内でのアメリカの航空機による野蛮な攻撃を断固として非難している...ソ連は兄弟である社会主義国家の安全保障に無関心であるはずではなく、DRVに必要な援助と支援を供与する」
※65年2月7、8日というのはフレーミング・ダート作戦、つまり米軍による北爆開始のことと思われます。65年8月5日というのはハッキリしませんでしたが、この日CBSニュースが米海兵隊が、ベトナムの村を焼くニュースを放送し、全米に衝撃を与えるという出来事がありました。もしかしたら、これを非難したのかもしれません。

1965年以降の駐ベトナム米軍の増大に伴い、中国同様、ソビエトも北ベトナムの主要な援助国となりました。しかしながら、このソビエトの支援の内訳は、未だ完全には明らかにされていません。 1966年に、北ベトナムの戦闘機パイロットおよびサポートクルー、対空砲撃部隊がソビエトで訓練を受けたという噂が広まり、その後、1964~65年に北ベトナムで約3000人のソビエト人員が任務に就き、一部は米国の飛行機を撃墜していたことが明らかになりました。 1967年の春、タイム誌に、ソビエトから中国を経由して、北ベトナムへ「river of aid(援助の河)」が流入しているという記事が掲載されます。一部のアナリストによると、60年代後半までに、北ベトナムが受け取った軍事及び工業技術の4分の3以上が、ソビエトからもたらされていた物とされています。また、中国が供給した装備や武器が借款であり、後にその費用を返済するという決まりだったのとは異なり、ほとんどのソビエトの援助は純粋な援助でした。
 
中国、ソビエトという二大共産主義大国の後ろ盾を得た北ベトナムでしたが、60年代後半以降、中ソの内ゲバの板ばさみという問題が出てきます。1956年2月の第20回ソ連共産党大会における、フルシチョフのスターリン批判に端を発する、中ソ対立は両国間の領土問題を内包しつつ、65年秋に毛沢東が発動した中国文化大革命により、その緊張は最高潮に達しました。
 69年3月2日、15日に中ソ国境、ウスリー河の中洲、ダマンスキー島(珍宝島)と周辺2,500余の島の帰属をめぐり、両軍合わせて数百人の死者(資料により死者数に差アリ)が出る武力衝突、ダマンスキー島事件がおこりました。これにより両国はウスリー川(国境)沿いに100万人規模の兵力を動員し、同年8月13日、新疆ウイグル自治区祐民県テレチク地区(中ソ国境西部にあたり、中国よりソビエトの兵站線が短い)において極東ソ連軍が航空、地上機動部隊により、中国人民解放軍歩哨中隊に攻撃を加えたテレクチ事件が発生します。米ソ間での対立の激化はキューバ危機が有名ですが、この時の中ソの武力衝突は核兵器の投入まで検討されたといわれており、非常に危険な状態でした。
 69年9月、ホー・チ・ミンが死去し、ハノイでの葬儀に参列したコスイギンは帰国する足で
中国を訪問し、周恩来と会談を持ちます。これにより一触即発の核戦争の危機は回避され、一応の緊張緩和が成されますが、両国の対立は80年代終わりまで続くことになります。79年ソビエトはアフガニスタン侵攻を開始し(アフガニスタンはワハーン回廊にて中国と僅かに国境を接しており、中国は60年代、回廊の領有権を主張していた)、当時中国よりの姿勢を見せていたカンボディアへのベトナムの侵攻を後押ししました。この両国の仲違いは、事実上、ハノイに北京とモスクワのどちら側に付くかという選択を迫りました。
 最終的に、1968年11月、ソビエトと北ベトナムは新しい軍事及び経済協定を締結します(※3)。北ベトナムがソビエトを新たなパートナーに選んだのは、当時ソビエトは大多数の東欧共産国の支持を得ており、西側諸国の間でさえも、中ソの対立はソビエトが最終勝利者になるだろうと予想していて、またベトナムが歴史的に中国に搾取されてきた経験、軍事援助の「貸し出し、売りつけ」の中国よりも、「供与」のソビエトの姿勢(その裏にどのような思惑があるにせよ)に因るものだったのかもしれません。
 こうしてソビエトがベトナムの防衛力強化のため、食糧、石油、輸送機器、鉄鋼その他の金属、肥料、武器、などの大規模な提供を開始すると、毛沢東は、中国の援助物資を回収し始め、北ベトナムからすべての中国人人員の撤退を命じました。しかしながらハノイへのソビエトの援助は依然として中国の領土を通過しなければならず、頻繁に中国政府によって止められました。

※3:北ベトナムは、
1965年から1968年初めまで中ソによる自身の奪い合いをうまく利用し、アメリカとの平和協議における中ソの口出しや支持を突っぱねていた...つよい(確信)。

RPD軽機関銃

このRPDは、1965年11月14日~18日にかけて行われたイア・ドラン渓谷の戦いにおいて、北ベトナム陸軍第32連隊より鹵獲された個体で、第2軍管区、司令長官VINH LOC少将より、同じく第2軍管区プレイクの上級顧問だったセオドア・マタクシス大佐へ表敬贈呈されたものです。北ベトナムはソビエトはもとより、中華人民共和国からも大量の物質的、人的支援をうけており、このRPDも中国のライセンス生産品の56式軽機関銃です。余談ですがこの銃は、海外のじゅう銃火器オークションにおいて10万ドルの高値で落札されたそうです...
 第一次インドシナ戦争(1946年12月19日~54年8月1日)前後においてのRPD使用の可能性ですが、この機関銃の設計自体は1944年に完了していましたが、ソビエト自身、生産ラインを整え安定生産に漕ぎ着けたのは53年になってからで、対越支援に本腰を入れ始めたのがコスイギン体制以降であり、また、中国がソビエトからライセンスを受け、56式を生産開始したのも、文字通り1956年ですから、これ以前にソビエトからベトナムに供与されていたか微妙なところだと感じます。とはいえ、供与とライセンス生産を同列に語ることはできませんので、ソビエトはともかく、早ければ56年以降中国から供与が開始されていたかもしれません。なにしろ、ソビエト及び中国の対越支援の歴史的流れをもう少し調べてみる必要性を感じました。
 ともあれベトナム戦争における、米越両軍の初の大規模衝突であったイア・ドランでの使用が確認できたのは大きな収穫だったかと思われます。流石にそれ以前を想定したイベントはそうそうありませんからね...いや、あったら大コーフンですが(笑)。

RPD軽機関銃と56/56-1式7.62mm轻机枪

RPD軽機関銃

GAU(中央火器人民委員会)の役員と、銃器設計者の集合写真。1944年、モスクワ州
Shurovoにて。
下段左から、セルゲイ・シモノフ、ゲオルギー・シュパーギン、NIPSVO(赤軍小火器科学研究所)所属少将、ヴァシリー・デグチャレフ、ウラジーミル・フェデロフ、アレクセイ・スダエフ。RPD軽機関銃n設計のためにソビエト連邦が誇る、錚々たる銃器設計者達が集められました。

RPD軽機関銃
RPD軽機関銃

1944年、恐らく最初に設計されたもの。K・イワノフ二世、E・K・アレクサンドロヴィチ、V・G・セレズネフによる。
RPD軽機関銃

恐らく二つ目に設計された個体。重量5.4kg。箱型弾倉がついています。

RPD軽機関銃

第三のモデル。

RPD軽機関銃

四つめのモデル。垂直ハンドガードがつけられた。重量6.2kg。

RPD軽機関銃
RPD軽機関銃
RPD軽機関銃

五番目の設計モデル。ほぼ量産モデルに近い外見になりました。重量7.2kg。

RPD軽機関銃

最初の量産型、ソビエトRPDⅠ型と思われる個体。1948~1950年の二年間の間に設計、生産されたようです。

試作型のRPDの情報は少なく、日本語資料は勿論、英語資料も見当たりませんでした。上に載せた情報はロシアのサイトで見つけたものです。ロシア語翻訳が時間がかかるので、とりあえず最低限の情報と写真だけ載せました。時間を見つけて残りの文章も翻訳を進められたらと考えています。

RPDの閉鎖機構

RPD軽機関銃

上の写真は実物RPD軽機関銃のボルトキャリアグループです。最上段がボルトアッセンブリー、中段が開放と閉鎖を司るロッキングフラップ(ウェッジ)、下段がボルトキャリアとピストンです。ご覧とおりボルトキャリアとピストンが繋がっており、ガス圧作動方式の内のロングストロークピストン方式ということが分かります。

RPD軽機関銃

上からDShK、DP28、RPDのボルトアッセンブリーです。この三つの銃は全てソビエトの著名な銃器設計者ヴァシリー・デグチャレフ技師によって生み出されました。どのボルトアッセンブリーも、そのまま拡大縮小したような相似形をしています。ボルトの左右に付いて楔形(ウェッジ)を成しているパーツはフラップといい、ちょうどペンギンの羽のような動きで閉鎖開放を行うので、フラッパーロッキング機構と呼ばれるようです。



RPD軽機関銃RPD軽機関銃



RPDのロッキング機構。フラッパーロッキングシステムが始めてパテントを取得したのは、1870年頃、フライバーグという名のスェーデン人によるものでした。メカニズムとしては、20世紀半ば、ドイツのH&K社が採用したローラーロック式と近いものがあります。ボルトキャリア後部のハンマーにあたる部分、図中番号3がファイアリングピンに近づき、フラップを左右に押し広げます。ピン先端が雷管を叩く位置まで前進すると、左右のフラップがレシーバー内側面のロッキングリセスと勘合し閉鎖が完了します。撃発後、ファイアリングスプリングのテンションによりファイアリングピンが後退し、弾丸が銃口から飛び出します。ガスブロックから導入された発射ガスがピストンとボルトキャリアを後退させます。フラップも図中番号5の溝に沿って元の位置に戻り始めます。関連動画にフラッパーロッキングの解説動画もあるので、興味のあるか方是非。

ソビエト連邦におけるRPD軽機関銃

RPDⅠ型

RPD軽機関銃
RPD軽機関銃
RPD軽機関銃
RPD軽機関銃
RPD軽機関銃

・ボルト直動固定式ボルトハンドル
・ベルトリンク導入、排出口ダストカバーなし(RPDのフィードトレイはレシーバーと別体なので、後述のダストカバー付きのものと交換され場合この限りではないと思われます)
・ガスブロック側付き筒型ピストンシリンダー、ガスピストンチューブとの間に僅かにギャップがあり、ピストンヘッドが見えています。
・照門ウィンテージダイヤル位置左
・照門ウィンテージダイヤル保護カバーなし
・可動式スイベルリング
・ボルトハンドルスリット(ボルトハンドルが前後に移動するための溝)にダストカバーなし
・レシーバー前方下部、少し細くなるような面取りをされています。
・ウッドパーツ単材、ハンドガードのみ合板の可能性が高いと思われます。
・Ⅰ型は情報や写真が少ないです。

RPDⅡ型

RPD軽機関銃
RPD軽機関銃
RPD軽機関銃

・ボルト直動固定式ボルトハンドル(後述の可倒式ボルトハンドル付きの個体ありとの文書を発見しました。が、写真が見つからなかったので参考までとしたいと思います。)
・ベルトリンク排出口ダストカバーあり
・ガスピストンチューブ側付きカップ型シリンダー、ガスブロックから伸びた導入管がシリンダーに刺さっている。
・照門ウィンテージダイヤル位置右
・照門ウィンテージダイヤル保護カバーなし
・可動式スイベルリング(リアスイベルリングのみ銃床後部に移動し、固定式にした固体あり)
・ボルトハンドルスリットにスライド式ダストカバーあり
・レシーバー前方下部、少し細くなるような面取りをされています。
・ウッドパーツ単材、合板ともに確認できます。

RPD軽機関銃
RPD軽機関銃

可動式のフロント、リアスイベルリング。ストックは単材。

RPD軽機関銃

リアスイベルリングがストック後部に移されている個体。

RPD軽機関銃
RPD軽機関銃

合板のストックとハンドガードが付いています。リアスリングスイベルの位置はストック後部。

RPD軽機関銃

ボルトハンドスロット下のスライド式のダイトカバーは上下に動きます。リアサイトウィンテージダイヤルは射手から見て右側に付いています。ボルトハンドルはボルトに直結しているため(ハンドルとボルトは一体成型や溶接ではなく、通常分解時には分離できる)、射撃のたびに前後運動します。


RPD軽機関銃

同個体の刻印。


RPD軽機関銃

Ⅱ型のガスブロックが、見慣れた形状のものに変更された可能性を示唆する画像です。しかしながら実物の画像が見つかりませんでした・・・


RPD軽機関銃

薄いですが1950の刻印が見えます。

RPDⅢ型


RPD軽機関銃RPD軽機関銃

・ボルト分離可倒式ボルトハンドル
・ベルトリンク排出口ダストカバーあり
・ガスブロック側付きカップ型シリンダー、ガスピストンチューブとの間にギャップがあり、ピストンヘッドが僅かに見えています。
・照門ウィンテージダイヤル位置左
・照門ウィンテージダイヤル保護カバーあり
・前後スイベルリングともに固定式
・レシーバー前方下部の面取りがなくなり、ストレートな形状
・ウッドパーツ合板

RPDⅢ型の最大の変更点はボルトハンドルとボルトの分離です。ボルトハンドル前方に向かって、アームが伸び、ハンドガード直前でベロのような形状に垂れ下がり、そこから更にハンドガード内部にアームが差し込まれています。


RPD軽機関銃RPD軽機関銃

Ⅲ型のボルトハンドル。アーム先端に見える小さな突起がボルトに引っかかり、後退させることができます。M16系列のモデルガンやガスガンを持っていたり、構造を知っている方でしたらピンと来るかもしれません。ボルトハンドルというより、AR15みたいにチャージングハンドルと言ったほうがしっくりきますね。パーツの構造と、youtubeの射撃動画でコッキング後、手動でハンドルを戻していることから、リターンスプリング的なものはなさそうです。


RPD軽機関銃

ソビエト製Ⅲ型と同等品と思われるエジプト製RPD。ハンドガード裏に入り込む構造が分かり易いです。ボルトハンドルは上方に折り畳まれています。短小弾使用故のレシーバーの薄さが際立ちます。
 レシーバー底部がガッポリ開放構造ですが、ここが排莢口です。RPDのマガジンブラケットが右側に滑り台のように湾曲しているのは、薬莢を右斜め下方に受け流すためと思われます。


RPD軽機関銃

エジプト製

RPD軽機関銃

ポーランド、ラドム工廠、1961年製。

RPD軽機関銃

ハンガリー製


RPD軽機関銃
RPD軽機関銃

Ⅱ型分解図(上)、Ⅲ型分解図、一部Ⅱ型も掲載(下)。ここで見比べていただきたいのは、ピストンヘッドとメインスプリングとボルトキャリア後部です。ピストンヘッドの形状が変更されています。Ⅲ型のメインスプリングは大小二つのスプリングで構成されています。小スプリングは主に冬場、気温が低く作動が不安定な場合に用いられ、訓練時など外されます。ボルトキャリア後部ですが、Ⅲ型には摩擦低減のためのローラーが追加されています。この二つの要素については、もう一度出てきますので記憶に留めておいて下さい。

RPDⅣ型


RPD軽機関銃

RPD軽機関銃

・ガスブロック側付きカップ型シリンダー、シリンダーは延長され、ガスピストンチューブとの間にギャップはありません。RPDM型と呼ばれます。
・ボルトハンドルスリット上にガイドレールを兼ねたダストカバーが追加されます。この形状のボルトハンドルをT型ハンドルと呼称します。
・ボルトハンドルが30mm前方に移動しました。
・ハンドガードが樹脂製のものもあるようです。
・他の部分はⅢ型に準じます。
・最終的な量産型になります。

総括

大まかに系統分けしましたが、まだ細かい仕様違いがあるかもしれません。特にⅡ型は試行錯誤の時期だったのか、調べていても混沌としていました。画像の選定にあたっては、パーツが入れ替えられていたり、寄せ集めと思われる、海外のガンマニアによるリビルド品や無稼動実銃は避けました。61年ラドム工廠製Ⅲ型を確認しましたが、ソビエト本国ではそれ以前にⅢ型が登場しているはずです。Ⅳ型はは遅くても60年代始めには登場していると思います。これは、後継のRPKが61年に採用されており、また、後述します中国のⅣ型コピーである56-1式軽機関銃が63年より生産開始していることに因ります。画質が悪く、完全な確認ができなかったので資料として使いませんでしたが、54年製らしきⅣ型の写真も見つけました。各モデルの登場年代はまだまだ調べる必要がありそうです。Ⅰ~Ⅳのナンバリングは僕が分類し易いように勝手に付けたものです。

中華人民共和国におけるRPD

中国はDP軽機関銃を53式轻机枪として採用していましたが、1956年、ソビエトからの技術と生産設備の供与により、RPD軽機関銃をライセンス生産しはじめました。この銃は中国では56式7.62mm轻机枪56式轻机枪、56年式班用轻机枪などと呼ばれているようで、班というのは、日本語で言うところの分隊に近い意味のようです。56式といえばSKSコピーの56式半自动步枪(56式半自動小銃)、AK47コピーの56式自动步枪(56式自動小銃)などが有名です。この三つの同一年制式銃はまとめて56式槍族と呼ばれているようです。56式小火器シリーズといったところでしょうか。
 基本的にソビエトからの技術転用ですので、RPDと大差はないのですが、後年になると中国独自の改良が加えられていきます。これは56半、56自でも、と言うより他の東側の国でも同じなのですが、中国のローカル化は個人的に好きですし面白いです。

 ベトナム戦争において、小火器や個人装備類は、多く中国から供与されました。56式半/自動小銃も56式軽機関銃も北ベトナム軍やNLFでの使用が確認できます。むしろソビエト製は使われたのか?というくらいです。ここからは中国製RPD軽機関銃について書いていきます。もし北ベトナムの写真を沢山お持ちの方がいましたら、前述のソビエト製と比べて判別してみてください(そしてどうぞ僕に写真を下さい笑)。北ベトナムの写真ももっとネット上に氾濫すればいいのに・・・

RPD軽機関銃

RPD軽機関銃
中国のサイトで最初期の生産型とされていた写真。しかしながら他に情報は発見できませんでした。各部の特徴はソビエト製RPDⅠ型と同じに見えます。壊れているのか、前方にずれてしまっているハンドガードは合板のようです。ソビエト以外のライセンス生産品は単材の場合が多く、例えば56式自動小銃も合板は使っていませんので、中国製と断定するのは控えておきます。参考までに。


RPD軽機関銃

RPD軽機関銃

上の方で触れた65年イアドランで鹵獲された個体。フィードカバー上に漢字で「五六式」の刻印があります。ソビエトRPDⅢ型のフルコピーと思われます。この記事ではこのタイプのものを56式軽機関銃初期型とさせていただきます。56式軽機関銃初期型はソビエトRPDⅢ型に習い、1961年に幾つかの小改良を経た後、生産体制に入りました。

・ガスレギュレーターの改良

RPD軽機関銃

RPDのガスレギュレーターは1~3ポジションの切り替え式で、各ポジションごとの溝の幅でガス流量を変更しています。1番2番溝は従来より狭く、3番溝は広く改良されました。

RPD軽機関銃

56軽機関銃のガスピストン。ピストンヘッドにクリーニンググルーブが追加されました。上の方に載せたボルトグループの写真やⅡ型の分解図と見比べてみて下さい。

RPD軽機関銃

同ボルトキャリア後部。右上にローラーが追加されました。


RPD軽機関銃

銃床内リターンスプリングが大小二つのスプリングから成るツーピース構造に変更。また、写真は見つかりませんでしたが、エジェクションポート前面下部の傾斜を30°増加(排莢の確実性を上げるため?)、ベルトリンク端末にフック追加(それまで100連だったものを50連×2にしたものと思われる)。などの改良が施されました。以上の特徴を持つ個体を56式軽機関銃後期型としたいと思います。

56-1式軽機関銃(暫定的名称)

RPD軽機関銃

基本的にソビエトⅣ型を踏襲した見た目です。1963年に更なる改良を行い、56式から56-1式にモデル名が変更になったようです。この名称変更の時期や根拠が少し曖昧なのですが、使用違いを分類するために、無理矢理56-1式(暫定的名称)を使わせていただきます。最後の総括で整理したいと思います。


RPD軽機関銃

56式(上)、56-1式(下)。
夜間射撃の際、集光し、サイティングを補助する目的でフロントサイトガードが円筒状になりました。同様のガード形状は56式自動小銃でも有名です。

RPD軽機関銃

イラク戦争時に米軍がサダム・フセインの親衛部隊の武器庫から押収したRPDの写真です。写真中央、互い違いに置いてあるRPD、上がソビエトも若しくは他のライセンス生産Ⅳ型、下が56-1式(これは暫定的名称でなく、確実に1式です)です。二脚の長さが330mmから300mmに短縮されました。これにより二脚と銃身の相対角度が32°から72°に増加しました。伏せ撃ちの際により低い姿勢をとれ、すばやく射撃姿勢に以降できるのと、小柄なアジア人に合わせた改良だと思います。また、構造の詳細が掴めなかったのですが、二脚折りたたみ時にクリップで固定されていたのが、ノッチ固定式に変更となりました。ハンドガードの窪みが無くなったのは、時期は分かりませんが、56式後期型(暫定的名称)からと思います。恐らく省力化の為と思われます。56式自動小銃もスットック、グリップ、ハンドガード全てのウッドパーツがオリジナルAK47とは異なる形状に改良、簡略化されており、非常に中国らしさがでている部分だと思います。また、弾倉内に弾性体のパッドを入れ、射撃時や移動時に弾丸が擦れる音を低減する改良も行われたようです。

RPD軽機関銃

かなり大きな変更点です。マガジンブラケットがリベット留めだったのが、ヒンジ式になり上方へ可動するようになり、フィードトレイ入り口のダストカバーとして機能するようになりました。この改良は恐らく中国独自のものではと思います。

RPD軽機関銃

それまでクリーニングロッドがレシーバー左側に露出して取り付けられており、紛失することがあったので、分割式にしてストック内に収納する方法に改められました。この図でも二脚が少し短いのが確認できると思います。


RPD軽機関銃

56-1式(暫定的名称)のガスブロック。ガスピストンチューブ直前まで延長されている、所謂ソビエトⅣ型と同じRPDM型です。

インターネット上で見つけた56/56-1式(暫定的名称)の資料性の高いと感じた画像

RPD軽機関銃

56式軽機関銃初期型。


RPD軽機関銃

56式軽機関銃初期型もしくはソビエトRPDⅢ型。グリップがスムースタイプに見えなくも無いです。

RPD軽機関銃

米軍に鹵獲された個体の写真。手前から、56式初期型もしくはソビエトⅢ型または56式後期型、恐らく56-1式(暫定的名称)(フロントサイトガードが円筒形にみえます。ハンドガードに窪みなしです)、56-1式(暫定的名称)(同上)。

RPD軽機関銃

鹵獲写真。67年5月8日の戦闘で鹵獲との張り紙が見えます。一番左の個体はクリーニングロッドが付いていないように見えます。右端の個体はクリーニングロッド外付けですが、RPDM型ガスブロック。

RPD軽機関銃

鹵獲した56-1式軽機関銃(暫定的名称)を眺める3RAR(王立オーストラリア連隊第3大隊)の兵士達です。68年撮影。


RPD軽機関銃

68年撮影の鹵獲品。

RPD軽機関銃RPD軽機関銃

上の鹵獲品と似た個体の画像です。
RPDM型ガスブロックから、56-1式(暫定的名称)かと思いきや、これもクリーニングロッドは外付けです。その上、刻印は56式です。打刻はフィードカバー上ですが、カバーごと交換された可能性を除くと仮定すると、56式後期型の時点で、56-1式へ繋がる改良が進められていたと思われます。ある日突然、モデルチェンジしたわけではなく、段階的に改良が加えられていったものと思われますが、中国軍内部では一々モデル分けしなかったのだと思います。所詮は同じ銃ですし、その方が効率良いですから当然といえば当然です。米軍もXM16A1の後、M16A1を採用し、何度かマイナーチェンジしましたが、モデル名は一貫してM16A1でした。でもマニアとしては細かく分類したくなってしまいますね(笑)

RPD軽機関銃

56-1式で二脚が短くなったのは確かですが、ベトナム戦時の画像では通常サイズのものばかりです。もしかしたら、もっと後年に施された改良なのかもしれません。

RPD軽機関銃

五六家の一族。ソビエトⅢ型か56式初期型。いかにも共産国製といったカンジの色のスリングが付いています。北ベトナム軍がどんなスリングを使っていたのかも気になります。


RPD軽機関銃

56-1式(暫定的名称)を試し撃ちするレンジャー隊員。56-1式では、それまで50連発×2本だったベルトリンクを25連発×4本にする変更もなされました。各リンクの終端にエンドロールタブという爪があり、次に繋げたいリンクの先頭に重ね、弾丸を嵌めると連結されます。
 写真は25発目を射撃し、排莢したことにより連結が解除された25連リンクが落下している瞬間です。スタータータブが付いているので、最初の25発だったものと思われます。フロントサイトガードがリング型なのも確認できるかと思います。
 50連近いベルトリングが垂れ下がっていると、移動時に引っかかったりしそうなので、良い変更だと思います。でも回収は大変そうですね。


RPD軽機関銃

別の隊員が撃っています。RPDM型ガスブロックなのも確認できます。二脚は通常の長さだと思います。

RPD軽機関銃

二脚は通常の長さで、結束用クリップが左脚下部に確認でき、フロントサイトガードは開放型です。ですが、RPDM型ガスブロック、ハンドガードは窪みなしです。T型ボルトハンドルです。左側面は見えませんが、クリーニングロッドが付いているはずです。刻印は56式だと思います。

RPD軽機関銃

56式後期型だと思います。二脚は通常の長さです。

RPD軽機関銃

56-1式(暫定的名称)。赤枠内、二脚のスキッドが見えます。二脚の長さを予想して青線を引いて、回転軸を基準に銃身に対して平行線を引いてみました。この二脚は、折りたたんだときスキッドがハンドガード手前までくる、通常の長さと思われます。青線は短く見えますが、これは、この角度で二脚を見るとパースがつくためです。同様の構図のソビエトⅡ型などの二脚で同様の作業をすると、青線が大体この長さになります。
 ベトナム戦時のRPDの写真で二脚の長さを随分調べましたが、短縮後のものは発見できませんでした。近年撮影された56-1式の、製造年が同定できない写真では短い二脚が確認できました。
 短縮二脚は56-1式特有の特徴なので、もっと活用したいのですが、なにしろ短縮長自体が30mmと、人間の感覚的にパッと見では差がわかりにくく、測りやすい構図の写真も、そうそう都合よくは出てこないので、56式と1式の判別法としては使いづらいと思います。

RPD軽機関銃

シリアルナンバーと製造年の相関性がわかればいいのですが・・・。グリップは樹脂製だと思われます。マガジンブラケット周りはよく見えないですが、他の部分は56-1式の特徴を全て備えています。

RPD軽機関銃RPD軽機関銃

シリアルナンバー的にさらに後年の個体。マガジンブラケットが跳ね上げ状態です。ハンドガードに窪みがある56-1式が存在したのか、付け替えられただけなのか不明です。しかし、他に窪みありハンドガードの56-1式は見たことがありません・・・。グリップの色が気持ち悪いです。


RPD軽機関銃

更に後年の個体。グリップは樹脂製でしょうか。チェッカーリングが施されています。上の方に載せた56式初期型などは、表面処理が黒染めっぽいですが、これらの56-1式は塗装に見えます。


RPD軽機関銃

最後に北ベトナム軍と56式後期型もしくは56-1式(暫定的名称)。できることなら、この個体の型式がどちらなのか、つきとめたかったですが力及ばず(涙)。
 以上、56/56-1式についてでした。ごちゃごちゃ書いてしまい分かりにくかったとおもいますので、総括で改めて解説したいと思います。

総括

ミリタリーフォトに写っている装備品や銃器の種類や年式を特定したいというのは、ミリタリー好きの方なら意識と思います。ソビエト製RPDのハンドガードに窪みなしタイプがあったのか不明です。文献によっては存在を示唆しており、これをⅤ型としていますが、実物写真が見つかりませんでしたので、ソビエトRPDの項目には入れませんでした。私見ですが、窪みなしハンドガードは、AKMでハンドガードに凸部を付け、AK74でストックに識別用の窪みを付けたソビエトらしくはないなと思います。
 今のところ、ベトナム戦争中の写真でソビエトRPDⅡ型以前のモデルが使用されているのは発見しておりません。ソビエトが本格的に北ベトナムを支援し始めたのが60年代後半からなこと、65年のイアドランで既にⅢ型相当の56式が鹵獲されていることを踏まえると、ソビエトが北に小火器類を供与していたとしても、古い型が使用された可能性は低いかもしれません。したがって、ベトナム戦争に投入された可能性が高いRPD軽機関銃の型式は、ソビエト製RPDⅢ型(あるいはそれに準ずる他の共産衛星国製)、56式軽機関銃初期型、ソビエト製RPD軽機関銃Ⅳ型(あるいはそれに準ずる他の共産衛星国製)、56式軽機関銃後期型、56-1式軽機関銃(暫定的名称)、としたいと思います。更にハンドガードに窪みがある56式軽機関銃初期型以前のタイプよりも、窪みなしの56式軽機関銃後期型以降の個体が多く使用されているようです。

56式軽機関銃初期型

・ハンドガードに窪みあり
・ボルトハンドルスリット上にダストカバーを兼ねたレールがない
・前進状態のボルトハンドルが照門より後ろに位置する
・ガスブロックとガスチューブの間にギャップがある
・フロントサイトガードが開放型
・二脚が通常の長さ
・クリーニングロッドがレシーバー左側下部に露出して収納

56式軽機関銃後期型

・ハンドガードに窪みなし
・ボルトハンドルスリット上にダストカバーを兼ねたレールがある。T型ハンドル。
・前進状態のボルトハンドルが照門より前に位置する(30mm前方に移動)
・ガスブロックとガスチューブの間にギャップがない。RPDM型ガスブロック。
・フロントサイトガードが開放型
・二脚が通常の長さ
・クリーニングロッドがレシーバー左側下部に露出して収納

56-1式軽機関銃(暫定的名称)
・ハンドガードに窪みなし
・ボルトハンドルスリット上にダストカバーを兼ねたレールがある。T型ハンドル。
・前進状態のボルトハンドルが照門より前に位置する(30mm前方に移動)
・ガスブロックとガスチューブの間にギャップがない。RPDM型ガスブロック。
・フロントサイトガードがリング型
・二脚が通常の長さ、短縮型の二種類あり。短縮型の方が後年のもののようですが、ベトナム戦時には確認できませんでした。
・クリーニングロッドが分割式になって、ストック内収納
・マガジンブラッケットがヒンジ式になり、上方に跳ね上げ、非装填時のフィードカバー口のダストカバーを兼ねるよになった。従って元々の蓋状のダストカバーはなくなった。このタイプもベトナム戦時には確認できませんでした。

以上の三種類がベトナム戦時に主に確認できるRPD軽機関銃のバリエーションです。まず、56-1式軽機関銃(暫定的名称)という呼称ですが、分類のために敢えて使用しました。結論から言いますと、現時点でベトナム戦争時において、上記で示した特徴を全て持つ、確実に56-1式軽機関銃と言い切れる個体は確認できませんでした。かといって、56-1式が使われなかったとは言い切れません。刻印がバッチリ写った写真でも見つかれば良いのですが、世の中そう上手くはいきません。そもそも56-1式刻印になったのが、いつ、どの段階だったのかというのが問題ですが、これも分かりません。いろいろと想像することはできますが、現状解決困難と思われる不確定性を孕んだ事柄について、悪戯に仮説をたてても意味がないので、散々型式分けしましたが、ここは一括で56式後期型と呼ぶのが最善かと思います。56式と56-1式(暫定的名称)と分別するのであれば、フロントサイトガードの形状、クリーニングロッドの有無が見分けるポイントになります。逆に言えば、この二点が確認できない場合、判別は困難です。

SOGのソウドオフRPDについて

RPD軽機関銃

SOGは、56式自動小銃やRPG2などと共に、銃身を短く切り落としたRPD軽機関銃を使用したとされています。その多くは中国製56式軽機関銃と思われます。

RPD軽機関銃

RPDM型ガスブロック、外付けクリーニングロッドの、ソビエトRPDⅣ型か56式後期型です。

RPD軽機関銃

56式後期型。

RPD軽機関銃

56式後期型。SOGの無線中継基地にて、出撃前の装備装着中の写真です。裏焼きです。

ソウドオフRPDで気になるのは、ただ切りっ放しにして正常に作動するのか?それとも何か対策を施しているのか?ということです。多分、てっぽう好きなら、誰もがそう思うのではないでしょうか。
 RPD軽機関銃の射撃方式はフルオートマチックオンリーのオープンボルト方式です。弾丸が発射されると、発射ガスの一部がガスブロックを通ってピストンを作動させます。RPDはロングストロークピストン方式ですので、ボルトキャリアーはピストンと一体型です。ボルトキャリアーとボルトはリコイルスプリングを押し縮めながら後退します。後退しきるとリコイルスプリングにより前進を開始します。トリガーを引き続ける限り、レシーバー内底部のシアーが下がった状態が維持されるので、弾切れになるまで、この往復運動を繰り返します。射撃途中でトリガーを話すとシアーが上がりボルトキャリアーとボルトを後退状態で停止させ、射撃が止まります。
 銃口から弾丸が飛び出すと燃焼ガスも一緒に銃口から放出され、急激にガス圧が低下します。銃身を短くするとガス圧の低下も早まります。これはピストンとボルトキャリアーを後退させ、リコイルスプリングを押し縮める力が弱まることを意味します。もしガス圧が極端に足りなければ一発目を激発した後、ボルトキャリアーがすぐに前進位置に戻ってしまい、射撃を継続できません。ガス圧が中途半端に足りていて、ある程度後退するも、シアーにはかからない後退距離で、尚且つボルトキャリアーとボルトの前進速度と質量が激発に十分な場合、二発目以降も射撃が継続され、トリガーを離してもフルオートマチック射撃が止まらない事態に陥ります。似たような現象がオープンボルト方式の短機関銃で不用意に減装弾を用いたときに発生することで有名です。また、ライフリングも気になるところです。


銃身をこれほど短くカットダウンしたRPDを、どのように正常に運用したのか、その可能性を考えてみました。

単純かつ設計的に余裕のあるロングストロークピストン方式であることから、銃身を切っても使えた。リコイルスプリングが低下したガス圧でも問題なく使用できるものだった。もしくはスプリングレートを低下したガス圧に適したものに変えた。56式後期型はボルト後部に摩擦低減のためのローラーがつけられている。リコイルスプリングが2ピース構造で作動環境に合わせてスプリングテンションを変更できた。RPDM型ガスブロックのため、発射ガスのロスが少なくなっていると思われる。
 AK47の有施条銃身長は369mm、RPDをガスブロックから2インチの位置で切り落とすと、有施条銃身長が350mm前後になります。このことから、クローズドボルトのAK程ではないにせよ、それなりの集弾性ほ維持できたと思われます。ちなみに、7.62×39mm弾のツイストレートは1/9.449インチ、施条の本数は4条、右回りです。

LCT RPDの後ろ向きレビュー

トイガン業界初モデルアップということで、非常に盛り上がったLCT RPDの発売でしたが、その出来栄えはどの様なものだったのでしょうか。LCT得意の黒染めフルスチール、美しい合板のウッドパーツ・・・良いところは、恐らく他の方や販売店が紹介していると思いますので、ここでは敢えて(vietnam era的に)残念だった部分に触れていこうと思います。

・レシーバーがデブい。メカボックスが収まるので、横幅はまだしも、縦幅まで実銃より大分高いです。

RPD軽機関銃RPD軽機関銃RPD軽機関銃RPD軽機関銃

・LCT RPDのセーフティーレバーの動き。実銃とセーフティーのON,OFFの位置が逆です。写真のようにレバーを前方に回すとトリガーのロックが解除され通電できるようになります。実銃では一度グリップから手を離し、レバーを手前に回しセーフティーを解除する必要があります。AKと同じ安全配慮でしょうか。

RPD軽機関銃RPD軽機関銃

・グリップが太い。実物にもこういう形状のものもあるようですが、それにしても、まるでレンガを握っているようです。後で削りまくって、窪みなしの56式仕様にしたいと思っています。

RPD軽機関銃RPD軽機関銃RPD軽機関銃

・左がLCT、右が実物。マガジンの直径が約6mm大きい。厚みも約6mmほど厚いです。直径は円の両端で3mmずつ大きいだけなので、それほど気になりませんが、厚みはちょっと違和感を感じます。特に写真撮影などでは、カメラに向かって横に向けてポーズをとることも多いので、目立ってしまうかもしれません。

・ベルトリンク引き出し口の蓋の位置が数センチ上になっている。実物に、こういったタイプがあるのかは分かりませんが、ダミーカートを装着したとき、弾丸一発分よけいに蓋に隠されてしまうので、実際の見え方と変わってしまうと思われます。

・内部のBB弾巻き上げ機構の固定のため、リベットが打たれている。電動ガンですから仕方ないのかもしれませんが、どうにかして貰いたかったです。その他のパーツの固定も、実物の溶接止めに比べて、リベットによる固定が多いです。

RPD軽機関銃

・LCT RPDの全体的なパーツ構成は、ソビエトⅣ型をモデルにしていると思われるのですが、ガスブロックのみ隙間のあるタイプとなっています。ここは実際の使用例や個体で一番目にすることが多く、汎用性の高いRPDM型にして欲しかったです。

RPD軽機関銃

・ホップダイヤルへのアクセス用に、実物にはないスライド式の蓋がついています。G&Pストーナーマシンガンみたいにフィードカバーを開いてのホップ調節にしてくれれば、外観も崩れずに済んだと思うのですが。

・最後に一番の残念ポイント。ここまで実銃写真を散々目にしてきた皆さんなら一目瞭然と思います。ボルトハンドルの形状再現が中途半端です。ベロのように垂れて、ハンドガード内部に入り込む部分が丸々オミットされています。LCTは、せっかくスチールで強度のあるパーツを作れるのだから、こだわって欲しかったです。これではボルトをコッキングできないです。弾が撃てないので平和的ですね(笑)

個人的に気になった点は以上になります。いろいろ文句を並べてしまいましたが、RPDへの愛情ゆえです。全体的にはハイクオリティの部類に入るトイガンだとおもいます。これから自分で手を入れられる所は入れて、できるだけ理想の形(56式軽機関銃)に近づけていきたいと思います。

さいきょうのましんがんをめざして

自分で手を入れられる所は~なんてエラそうなことを言ったばかりですが、この度チャイナレイク研究所の凄腕ガンスミス様にお願いして、外装カスタムをして頂きました。

RPD軽機関銃RPD軽機関銃RPD軽機関銃

SOG RPD再現の第一歩、そして不可欠のバレルカットですっ。それもただ切り落としたわけではありません。当時の写真で確認できる、カットのバリエーションを用意していただき、施工して頂きました。
 左から、ガスブロックから2インチ突き出し、1インチ突き出し、0.5インチ隙間+フロントサイト。



RPD軽機関銃

一番のお気に入りサイズの2インチ突き出しタイプ。冒頭で紹介した、エド・ウォルコフ氏のものと同じ銃身長です。実銃の分解図と見比べてみたところ、ライフリングが刻まれている銃身長(Rifled bore length=有施条銃身長)が約350mmとなり、AK47の銃身長と近い値となります。フロントサイト付きや1インチも良さがありますが、2インチ突き出しという中途半端さが何とも言えない怪しさとスタイリッシュな雰囲気を醸し出します(笑

RPD軽機関銃

しかもノーマルの状態にも戻せるようにして頂きました。これで北ベトナムもできますし、鹵獲品として撮影時の小道具に使うこともできます。各銃身長への変更方法、スチール削りだしのエクステンションバレルの設計などなど、素晴らしい拘りと完成度で、ただただ頭が下がるばかりです。本当にありがとうございました!




Posted by ふらっととっぷ at 11:26│Comments(0)ベトナム戦争
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。