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2018年09月23日

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

こんにちは。
最近は「死霊館シリーズ」というハリウッドの連作ホラー映画にはまっています。現在7作ほど公開されていて、近日最新作が公開されるそうです。実在したアメリカの心霊研究家夫妻の体験を基にしているそうなのですが、どの作品も佳作に仕上がっています。大体、悪魔や悪霊に悩まされる人々が出てくるのですが、なかなかに不気味です。やはり文化的なバックボーンがあるせいか、悪魔モノは良く出来ている作品が多いように感じます。「エクソシスト」やジョニー・デップが主演した「ナインス・ゲート」など記憶に残っている映画がいくつかあります。しかし、この「死霊館シリーズ」毎回のように超常現象でドアが開かずに人が閉じ込められる描写があるのですが、毎度のことなんだから対策を講じろよと思ってしまいます。悪魔に取り憑かれたらまずは、「家中のドアを外す」べきということを学びました。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

そういえば(唐突)
ベトナム戦争に興味を持って調べ始めて4年ほど経ちました。中学生の時にレンタルビデオで観た、映画「ハンバガー・ヒル」が衝撃的で、当初はそのイメージしかなく、陸軍歩兵部隊のカッコがしたくて兎に角インターネットで情報を集めて、ヤフーオークションで装備品を買っていました。
しかし、そうしているうちに、とあるブログ様で「ベトナム戦争における特殊部隊の存在」を知ります。今ではそのブログ主様にはリアルでお世話になっていて世界の狭さを感じるわけでありますが...とにかく特殊部隊と聞いた僕は舞い上がってしまったのでした。男の子だから仕方ないです。
それからは、ひたすらに、寄り道しつつ陸軍特殊部隊について情報を収集しました。今回の記事では現在までに知り得た情報を総動員して、当時の特殊作戦のイメージを朧げながらでも捉えられたらと思います。
当初はタイトルにもありますベトナム戦争時に起きた「とある事件」についての記事だったのですが、どうせならと書けるだけ書いてみました。不足不正確あると思いますが、よろしければどうぞ。
第一次インドシナ戦争という言葉を知ったのはいつ頃だったか、今やもう思い出せない。
とにかく、ベトナム戦争を第二次インドシナ戦争と呼称するのは、この第二次世界大戦/太平洋戦争終結後のフランスによる、再度のベトナム植民地化戦争を意識してのことだ。
更に言えば少なくとも19世紀後半、ナポレオン3世のコーチシナ戦役からアロー戦争、清仏戦争による大清帝国弱体化から始まるフランス植民地時代、大平洋戦争における日本による侵攻と植民地化、といった歴史的流れも無視することができない。第二次世界大戦終結と共に勃発する東西冷戦の一部というだけでなく、帝国植民地主義が世界中に残した新たな火種の一部であったと言える。

冷戦は超大国の世界覇権掌握を背景とした資本主義と共産主義の対立であるが、イデオロギー戦争という点においても中世キリスト教対イスラム教などの宗教戦争と類似するものであるし、冷戦を修飾する代理戦争も例えばアメリカ独立戦争においてフランスが大陸軍を支援したように、戦争の一形態として冷戦以前から存在しており、またそこにはカトリックとプロテスタントという対立するイデオロギーと、数百年に渡るイギリス王家とフランス王家の覇権争いが絡んでいた。
戦争はその折々の技術、思想によって削いで足して洗練され、発展して装いを変えつつも、確実に前世代の血脈を受け継ぎ、時代、地域を選ばず原因、教義、手段方法、結果、余波に至るまで多くの相似性を見出せることで、もはや人類が獲得し育んだ負の文化と言える。人類の歴史が戦争の歴史であることに一定の納得をせざるを得ないのは悲劇である。
個人的にには、ベトナム戦争はアメリカとソビエトという、これは人類史上最大規模の二極化ではあるが、二大超大国の意地の張り合いの下、アフリカ、アジア、中東、南米と世界各地で起こった数多の冷戦期代理戦争のうちの一つが「ベトナム内戦」にオーバーラップした一局地戦であったと考える。
さあれども、その規模は厖大であり、政治的に軍事的に文化的にも旧来の戦争観を変化させたという点において特に強い注目を集めてきたのは間違いない。
科学、軍事技術に関しては、挙げていけばキリがないが、第二次世界大戦を経て、ジェット機、ヘリコプター、自動小銃、ミサイル、偵察衛星、ドローン、レーダー、無線通信、コンピューター等の開発または機能向上が進んだ。これらは現在に繋がる技術、兵器体系となり、ベトナム戦争は新時代の戦争の一大実験場となった。
また、米軍においては特殊作戦部隊の発展も一例と言えよう。その始まりを遡ればきりがないが、現代米軍特殊部隊に繋がる不正規戦部隊の表出もまた、この戦争に見出せるだろう。
ベトナム戦争は朝鮮戦争以来の米軍による大規模な戦闘が行われたが、もう一つの側面として大規模な不正規戦の場でもあった。寧ろ不正規、正規軍が混然一体となって戦争を推し進めたと言えるかもしれない。
我々は得てして特殊部隊、正規部隊を完全に区別して捉えようとしてしまうが、特殊部隊の作戦地域(AO)は正規部隊のAOと共通する場合もあり、特殊部隊が先行侵入した開拓地域が後に正規部隊の侵攻地域になった例もある。特に航空戦力においては、特殊作戦に正規部隊から一部戦力が貸し出され、正規部隊内にも長距離偵察部隊が編成され、彼らは特殊部隊隊員により教育を受けた。
特殊戦によりもたらされた情報が国防総省に直接送られており、戦争の主役たる正規部隊の運営の一助になっていた事は想像に難くない。
例えば歩兵中隊が戦闘、偵察などの任務による斥候/斥候部隊を編成するが、詳細は後述するが、長距離特殊偵察部隊として知られるST/RT(スパイク/リーコン・チーム)も大隊規模SOG統合部隊(SOG Compound)の偵察中隊のうちの偵察小隊であり、偵察、襲撃等の任務を遂行する分遣隊という点で斥候と言える。また陸軍の歩兵部隊に編成されたLRRP/LRP/75レンジャー、リーコン、また海兵隊リーコンなどの部隊も同様の性格を持っている。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
MACV SOGのOP-35(陸上研究部門)の軍事顧問たち。リーコンチーム・コロラド。

MACV SOGは恐らく最も知名度の高い特殊戦組織である。これは南ベトナム軍陸海空特殊作戦のアドバイザー機関であり、特に有名なOP-35と呼ばれる陸上作戦部門においては、二名から三名の米国第五特殊作戦群の軍事顧問と四名から九名の南ベトナム陸軍特殊部隊NKT隊員より構成される偵察部隊(スパイクリーコン・チーム=RT)が開拓部隊(Exploitation Force)と呼ばれる即応/攻勢部隊と共に、敵後方に越境作戦を行った。SOGの米軍将兵の多くは第5特殊作戦群からの志願兵であったが、隷下部隊の多くはMACV SOGの指揮統制下にあった。

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B53はSOG-38と5thSFGの共同指揮下でキャンプ・ロン・タン(1-0スクール)の運営を行った。B51はドン・バ・ティン訓練センターでLLDBの訓練顧問。B52はプロジェクト・デルタの他に、ニャチャンのキャンプ・グェン・ヴァン・タンでリコンドー・スクールの運営。

スペシャル・フォースの隊員であればC&C(南ベトナム陸軍NKT雷虎の指揮統制部。SOG OP-35が顧問を務めた)の存在は知っていても、実態は知らず、サイゴンのSOG本部に出向き僅かな概略の説明を受け、その危険な内容を受け入れられず志願を取り止める例もあった。
では第5特殊作戦群自体はベトナムで特殊作戦を展開していなかったのかと言うと、そうではない。
少数民族を民間不正規戦部隊(CIDG)として登用し、南ベトナム各地に特殊作戦部隊作戦基地(SFOB)を建設し、ストライク・フォースと呼ばれる機械化歩兵部隊を組織したり、それを更に発展させた空挺/空中機動部隊であるモービル・ストライク・フォースを運用した。また偵察部隊として、部隊名にギリシア文字を冠した部隊を編成し秘密作戦を行なっていた。

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第5特殊部隊群の特殊偵察作戦部隊
プロジェクト・デルタ(B52):始動1964年10月、終了1970年6月30日
プロジェクト・オメガ(B50):始動 1966年6月or8月?、終了1967年10月31日
プロジェクト・シグマ(B56):始動 1966年6月or8月?、終了1967年10月31日
プロジェクト・ガンマ(B57):始動1968年4月1日、終了1970年3月31日
*B52自体は5月15日にベトナム入りしている

以上四部隊が米国陸軍第5特殊作戦群(5th SFG)が編成した特殊作戦部隊である。こちらも有名なので名前だけでも耳にしたことがある方は多いと思う。
とは言いつつも、いったいどんな組織だったか、なかなか捉えどころのない存在だと思われる。ベトナム戦の陸特というと、どうしてもMACV SOGのイメージが強く、解説しているウェブページや書籍も圧倒的にこちらの方が多いのが現状だ。
まず最も重要なポイントは上で述べた通りSOG各組織とグリーク・レター(ギリシア文字)の運営者(COMMAND=指揮)の違いだ。これはベトナムに展開している部隊である以上、当然のことだが、グリーク・レター部隊のコマンドである第5特殊作戦群もMACV SOGも、MACVの隷下部隊である。その下でSOGの各組織はMACV SOGの指揮下であるが、グリク・レター部隊の指揮系統の一部は複雑な経緯を辿ったようだ。
SOG OP35とNKTと他のSOG構成部隊の任務が、他の特殊部隊のそれと最も異なるのは「越境(over the fence)」するということだ。これは明らかに国際法を無視した犯罪行為だ。まあ北ベトナム軍は正規軍そのものが国境侵犯して来ているのでお互い様だが。SOGの任務は恐らく準軍事作戦の極みみたいなもので、軍隊らしさというものが薄い装備や編成にもそれが現れているように感じる。だから核心に迫る情報は出で来ない。米国政府の機密解除にしても本当にブラックな部分は公開はしない。戦争終結から20年以上が経過し、少しずつベテランの証言や書籍も世に出てきたので、そちらに期待する他ないだろう。

以下に5th SFGが主導したグリーク・レター部隊について調べた事を、MACV SOGの変遷と交えて書いていく。

5th SFGとMACV SOG
グリーク・レター部隊のうち最も早い段階で登場したのはプロジェクト・デルタだ。恐らく知名度が一番なのもこの部隊であろう。
南ベトナム陸軍の特殊作戦の準備は1950年代半ばより開始されており、空挺降下による北ベトナム、ラオスへの長期潜入に向けて米軍第1特殊部隊群および第7特殊部隊群により訓練を行っていた。
1961年にはパラソル作戦が開始され、同年二月に最初の降下によりチーム・アレスが北ベトナム領内に潜入した。その後も米軍特殊部隊群の監督の下、多くの南ベトナム軍特殊部隊が越境作戦を敢行したが被害も多く、降下直後に捕虜、戦死、行方不明になる隊員も少なくなった。
また留意すべき点としては、この時点では実際に越境潜入するのは南ベトナム軍特殊部隊隊員のみであり、米軍事顧問は監督役ということだ。なぜなら、まだこの時期、米国はインドシナへの本格介入(正規軍の派遣)に消極的であり、アメリカ人が捕虜になる等のトラブルを避けねばならなっかたのだ。当時、マクナマラは特殊部隊将校から米軍人も加えた部隊創設の提案を却下している。

米軍特殊部隊群顧問による、南ベトナム軍特殊部隊単独での越境作戦の最後になったものはリーピング・レナ作戦と思われる。1964年5月15日、第5特殊部隊B52分遣隊がベトナムに派遣され、リーピング・レナ作戦の指揮をとった。6月24日~7月1日にかけて決行されたこの作戦では、各チーム8名、計5チームがラオス領内に降下した。結果は、降下した隊員40名中の生還者5名(4名という情報もある)という悲惨なものとなった。
降下地点は安全を考慮し、水平に木々が生茂ったジャングルキャノピーが選ばれた。パラシュートが枝に引っかかり、着地時の生存率を最大限に引き上げることを期待したようだが、1名がリペリング時に死亡し、他に数名が負傷した。殆どの隊員は食糧確保のため村にに近づき、捕縛または殺害されたのだった。

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1964年6月12日、沖縄の第1特殊部隊から、B1/110とA1/111が180日間のTDY(一時派遣)でB52に組み込まれた。彼らのベトナムでの初任務はリーピング・レナ作戦の生存者の回収だった。回収ミッション中のヘリ内のB52要員(左)。国境付近で生存者を探索中(右)。

リーピング・レナの失敗後、64年10月にB52分遣隊はプロジェクト・デルタに任務変更となった。プロジェクト・デルタはそれ以前とは違い、国境内特殊作戦へと変更となったが、ベトナム戦争において始めて米軍特殊部隊隊員が、南ベトナム陸軍特殊部隊と共に作戦行動に随行可能となった。

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プロジェクト・デルタの長距離偵察(LRRP)チーム。タイガーストライプ迷彩に身を包み、CAR-15を片手に胸にパイロット用ナイフをくくり付けた姿は「ナム戦特殊部隊」という概念化している感もある。五六式チェストポーチを付ければキミも完璧だ!

同時期の他の方面に目を向けてみると、1962年2月8日MACV設立、1963年11月2日ゴ・ディン・ジェム大統領暗殺、1963年11月22日ジョン・F・ケネディ大統領暗殺、1964年1月24日MACV SOG設立、1964年5月15日MAAG活動終了となっている。
因みにSOG OP-35は65年9月21日、国防総省より対ラオス越境作戦の承認を得、65年10月18日にRTアイオワがヘリボーンで空路進入を行ったのが最初である。ここから始まるSOGの対ラオス越境作戦を、シャイニング・ブラス作戦という。

対ラオス
Operation Shining Brass-1965年9月21日開始
Operation Prairie Fire-1968年改称
Operation PHU DUNG-1971年4月8日改称
対カンボジア
Operation Daniel Boone-1966年6月27日にカンボジアへの越境作戦が発案されたが、実際には1967年6月に侵入範囲を限定して開始。1967年10月、国境から20Km、さらにその後30Kmまで拡大した。
Operation Salem House-1968年12月改称
Operation THOT NOT-1971年4月8日改称

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SOGが本格始動した1965年、彼らはカム・ドゥック(Kham Duc)特殊部隊キャンプに駐屯していた。しかしながら、カム・ドゥックはア・シャウ渓谷(エイ・ショー・バレー)のはし南に位置しており、恒常的な天候不順と、ラオス国境に隣接していたため日常的に北ベトナム軍の攻撃を受けていた。そこでSOGは自前の作戦基地を設立し問題解決を図った。この作戦基地はFOB(Forward Observation Base=前進観測基地)と呼ばれた。

FOB#1:フバイ(Phu Bai)1966年6月/7月開設。
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ARVNの訓練センターに隣接しており、RT出撃用の滑走路を一本有していたが、国境線からかなり距離が離れており、越境作戦に使用していたCH-34ヘリコプターでは目標地点に到達するまでに給油が必要なことが判明した。

FOB#2:コンツム(Kontum)1966年6月/7月開設。
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ARVNの駐車場だった場所に建設された。SOGは14号街道を挟んで東西に分割配置された。東側にリーコン中隊(RT)、西側はサポート部隊に利用された。南に3Km下った場所にタン・フ村(Tan Phu)があり、ここにはハチェット・フォース(SOGの即応攻勢部隊/Exploitation Force=開拓部隊と呼ばれる)が駐屯しており、アメリカ人達からは「モンタニヤード・キャンプ」と呼ばれていた。
1966年11月には第5特殊部隊のプロジェクト・オメガ・チームも移ってきて司令部と偵察部隊が設置された。オメガの偵察部隊の名前は後に「道具」や「無生物」から取られた。
この期間SOG OP-35とオメガは、一部同じような区画で同じような作戦に当たっていたが、報告先は異なる司令部だったため混乱が生じた。これは前述のとおり、それぞれ指揮統制が、MACV SOG(米国防総省、ホワイトハウス直結)と陸軍特殊作戦群で異なっていたためだと思われる。
オメガは1966年7月、ニャ・チャンにおいて結成された。
主なAOは第1軍管区で、深々度地域への長距離偵察、敵補給路偵察等の任務を行った。
オメガは当初、ARVNレンジャー大隊と共同作戦を行っていたが、後にMSF(モービル・ストライク・フォース)から編成したコマンド中隊(リアクション・フォース=反抗部隊)と、米軍人2名、現地兵4名からなるRT8個(後に16個)、現地兵4名からなるロード・ランナー・チーム4個(後に8個)から構成された。オメガのOPCON(作戦統制権)は第1野戦軍指揮官にあった。

FOB#3:ケサン(Khe Sanh)、マイロク(My Loc)
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1966年秋、ラオス、カンボジア、DMZにおける目標地域の拡大に向けてFOB#3が建設された。原型となったキャンプはケサンにあったブル・モンタニヤード村(Bru Montagnard Village)であり、FOB#1とFOB#2からの志願者がモンタニヤードからの新兵募集と訓練を行っていた。
FOB#3においてもRTは米国の州名、ホーネット/ハチェット・フォースは市名から命名する慣習を続けた。
1967年8月、FOB#3はブル、モンタニヤード村からケサンの海兵隊基地の南東角に移設された。移設に続いて追加要員が割り当てられ、それに伴い新たなRTが作られた。これらのRTは動物の名前に因んで命名された。
1968年6月、ケサン攻防戦の後、FOB#3は公式に閉鎖され、7月1日にマイロク(My Loc)に再設立され、11月に閉鎖されるまで活動が続いた。マイロク基地の閉鎖後、大多数のRT、ハチェット・フォースは解散し、志願者達は各々の配属先に戻った。

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ブル・モンタニヤード村

FOB#4:ダナン(Da Nang)
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1967年11月、ダナン中心部より南東に7Kmのマーブル・マウンテン(五行山と呼ばれる大理石の山)に隣接した海岸に開設された。
FOB#4の任務は、ラオス、DMZ、北ベトナムにおける偵察作戦だった。FOB#4の米国人隊員はSOGに配属されたばかりの者で構成された。
RTの名は毒蛇の名前から取られた。さらにチームには番号が割り振られ、各チームの宿舎と初期の部隊パッチに表示された。ハチェット・フォースはA~Dのアルファベットを指定された。

FOB#5:バンメトート(Ban Me Thout)
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1967年10月31日、プロジェクト・オメガ及びシグマがMACV SOGの作戦指揮(OPCON)下に変更され、1967年11月、FOB#5がバンメトートに創設された。FOB#2コンツムのプロジェクト・オメガ、FOB#6(Ho Nogc Tau)のプロジェクト・シグマの偵察部隊はFOB#5バンメトートに移された。
FOB#5のRTは道具や無生物から名前を取った。しかしながら、新たに組織された開拓部隊中隊(Exploitation Force)は1~3の番号を割り振られた。部隊の主な作戦地域はカンボジアだった。

FOB#6:ホー・ゴック・タオ(Ho Ngoc Tao)
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1966年8月開設?FOB#6はサイゴンとロン・ビンを抜ける1号幹線道路沿い、トゥドゥック(Tu Duc)の近くにあった。ここではプロジェクト・オメガとよく似た、B56 プロジェクト・シグマが組織された。
シグマもARVNレンジャー大隊と共同作戦に当たっていたが、オメガと同じくコマンド中隊を4個編成し、8個RT、ヌン族警備部隊168名から構成された。
主なAOは第3軍管区C戦域(War Zone C)の釣り針エリア(Fish Hook Area)と呼ばれるカンボジア国境に隣接した地域、省でいうとタイ・ニン省の上半分の区域だった。
任務は釣り針エリアにおける捕虜奪還、敵通信網の特定および傍受、会話の録音、電子監視装設置、トラップ設置、敵浸透地域への各種電子妨害機器の設置。MGF(モービル・ゲリラ・フォース)、長距離偵察ユニット、ロード・ランナー・チームによる、ブラックジャック21作戦(66年10月9日~11月9日)、22作戦(第2軍戦術区ブオン・ミ・ガ地区において66年12月10日~67年1月12日)、31作戦(67年1月8日~2月7日)、41作戦(31と同じ頃?)が挙げられる。シグマのOPCONは第2野戦軍指揮官にあった。

1968年5月/6月、第5特殊部隊プロジェクト・オメガ、シグマの隊員はMACV SOGに異動となった。第5特殊部隊はプロジェクト・デルタは持続させ、南ベトナム国境内地域での偵察任務を行った。

1968年11月までに各地のFOBは閉鎖や再統合を行い1969年1月にかけて、FOB#1フバイは閉鎖しRT要員はFOB#2とFOB#4に割り振られ、RTの名前に使われていた州名はもそのまま引き継がれた。
FOB#2コンツムはCCC、FOB#4ダナンはCCN、FOB#5バンメトートはCCSへと体制が変更された。
CC(N,C,S)とはCOMAND and CONTROLの頭文字で指揮統制、N,C,SはそれぞれNorth(北)、Central(中部)、South(南)の頭文字で、C&C Detachment North,Central,Southを意味していた。それぞれ書き出すと...

CCN(ダナン)
北部指揮統制。始動1968年1月1日、終了1971年12月31日。AOは北ベトナムとカンボジア
CCC(コンツム)
中部指揮統制。始動1969年1月1日、終了1971年12月31日。AOは南ベトナム、ラオス、カンボジアの三国国境地帯(トライボーダーエリア)。
CCS(バンメトート)
南部指揮統制。始動1969年1月1日、終了1971年11月31日。AOはカンボジア。

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CCSの著名なAOである"FISHHOOK(魚の釣り針)"地域にはCOSVN(南部統制局)と呼ばれる北ベトナム軍の司令部があったとされている。SOGはここに開拓部隊による攻勢をかけ、伝説的なSF隊員も生まれた。後のカンボジア侵攻で正規部隊も投入されることになるが、COSVNの捕捉には至らなかった。


といった具合に作戦地域別に北部、中部、南部の三つが設立された。特殊作戦の拡大と作戦地域ごとの柔軟な作戦立案のためと思われる。兵力規模は大隊サイズで、偵察中隊(RT)と開拓部隊中隊(ハチェット・フォースから構成される中隊規模実働部隊、これをフルサイズのSOG中隊とし、SLAM中隊と呼んだ。SLAMとはSearch-Location- and-Annihilation-Monitorのアクロニムで、探索、位置選定、殲滅、監視を意味している。Locationの解釈が難しいが、開拓部隊は越境して前線基地を作りホー・チ・ミン・トレイルなどの街道封鎖やハラスメント任務もしていたので、敵部隊や陣地の特定ではなく(こちらSearchに含まれるだろう)、前線基地の位置選定を示しているものとして、不可算動詞のLocationの意味を取った。そういった任務の性格からも開拓部隊(Exploitation Force)という名称の妥当性が感じられる。
例えばCCCはA,B,C,Dの4個開拓部隊中隊と30個RTから成る偵察中隊、基地警備中隊、それらの中隊本部、LS(ランチ・サイト、発進所。国境線からの距離にもよるが、FOBは実働部隊の駐屯地であり、一度LSに移動後、作戦地域に向かう)から構成されるNKT(SOG)大隊本部である。
SLAM中隊の任務はそのままSLAM作戦と呼ばれた。SLAM作戦ではRTが探索を行い敵勢力やキャンプを発見し、打撃部隊たる開拓部隊(ハチェット、ホーネットは小隊規模で、兵力規模が大きくなると、ハボック・フォースやハイメイカー・フォースと呼んだようだ)を投入、殲滅といった戦法がとられた。またハチェット・フォースは即応打撃部隊(リアクション・フォース)でもあり、RTが危機的状況に陥った場合の増援部隊としても機能したり、ブライト・ライト・ミッションと呼ばれる捕虜救出作戦も行った。
このようにC&Cの構成を見ていくと、SOGの代名詞のように扱われるスパイクリーコン・チーム、RTのその実際は、研究及び探索部隊大隊司令部(C&C)付き偵察(RT)中隊のうちの一偵察小隊だと理解できる。更に言えば、RTは南ベトナム陸軍特殊作戦部隊NKT雷虎の偵察チームであり、米国人SF隊員は彼らのアドバイザーという立ち位置である。実際に元OP35のベテラン、リン・M・ブラック氏はRTを指して、「our vietnamise team」と表現していた。

開拓部隊の構成要員はSCU隊員(Special Command Unit=少数民族、中華系ヌン族、ベトナム人などから構成され、開拓部隊の他、基地警備などに携わった)であり、少数の米国人SF隊員がこれの軍事顧問を務める。
つまり、こういった言葉があるか怪しいがC&Cは、南ベトナム陸軍特殊作戦任務部隊(special operation task force)と捉えると分かりやすいかもしれない。そしてこのタスクフォースの顧問がOP-35というわけである。これも訳の分からない英数字の羅列だが、OP-35とはMACV SOGの地上作戦部門(Ground Studies Branch)である。また分かりやすく意訳すれば、地上作戦監督部門ということになる。部門というからには作戦立案部署や連絡調整部署などの事務方もあったわけで、RTのアドバイザーとして派遣されたOP-35隊員は肉体労働の現場職だったと考えると分かりやすいと思う。

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CCSの開拓部隊中隊(ハチェット・フォース)のサインボード。右の翼のはえた虎がNKT「雷虎」の部隊章だ。

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1970年9月11~14日にかけて行われた、テイルウィンド作戦でのCCCハチェット・フォース。ラオス南東部への秘密潜入作戦で、一帯を占拠していた北ベトナム軍に圧力をかけてラオス王国軍反抗の転機を作ろうというものだった。

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CCCハチェット・フォース A中隊 第1小隊。

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CCCハチェット・フォース B中隊のアメリカ人顧問。バーナード・ブライト一等軍曹。やたらと絵心のあるCAR-15。

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偵察中隊(RT)のサインボード。

https://www.youtube.com/watch?v=kguRIN-ukEw
↑恐らくCCSのハチェット・フォースを捉えた動画。RTらしき人達もチラリと映っている。なにより第20特殊作戦航空隊「グリーン・ホーネッツ」が映っているのが途轍もなく貴重だ。

こうして各FOBやLSを束ねる指揮統制部、C&Cを各作戦地域ごとに運用するという構造を築き上げ、特殊作戦は更なる拡大を見せたが、アメリカは参戦当初より、ベトナム戦争は最終的にベトナム人自身によって解決されるべきと考えており(そもそも内戦だし)、戦争のベトナム化、所謂ベトナミゼーションを進めていた。これは特殊作戦においても同じで、アドバイザー機関MACV SOGは南ベトナム軍特殊戦機関NKT(英語ではStrategic Technical Directorate=STD)と共同作戦を行っていたが、徐々に指揮統制部(C&C)から自身の占める割合を縮小していった。
1970年代半ばNKT(STD)はの以前より運用してきた雷虎部隊(Liason Service=LS)に加えて黒龍部隊(Special Mission Service=SMS)を設立した。NKT(STD)の特殊作戦部隊には、それぞれに顧問部隊として、LSにはそれまでのOP-35に代わりLSAD(Liason Service Advisory Detachment)を、1971年2月にSMAG(Special Mission Advisory Group)を分遣した。なおSMAGは1972年5月1日、SMSAD(Special Mission Service Advisory Detachment)に再編成される。

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NKT「黒龍」の隊員と部隊章。

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SMAG(特殊作戦顧問団)の部隊章。

1970年後半、アメリカれ合衆国陸軍はベトナムの第5特殊作戦群を71年3月までに本国に引き揚げることを発表する。これは要員を第5特殊作戦群から引き抜いているMACV SOGにとって問題であったが、1971年1月1日に所属隊員をUSARV(ベトナム駐留米軍)に配置転換することによって解決し、同時に各C&CをTFAE(Task Force Advisory Element=任務部隊顧問団)に改組した。これに従って、SFの証であるグリーン・ベレーのは禁止され、代わりにブラック・ベースボールキャップ着用の指示が出された。また常勤用ファティーグに関しても、左肩にSF SSIを付けることは禁止され、代わりにUSARV SSIとエアボーンタブを付けるよう指示が出されたが、コンバットパッチとして右肩にSF SSIを付けるのは許可されたようである。

TF1AE(CCN):始動1971年1月1日、終了1972年10月半ば
TF2AE(CCC):始動1971年1月1日、終了1972年10月半ば
TF3AE(CCS):始動1971年11月2日、終了1972年10月半ば

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リーコンチーム・コネティカット。ロバート・ブラドウ氏。

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TF2AE本部の車両。

72年4月30日、進みゆくベトナミゼーションによりMACV SOG Ground Studies Groupは活動を終了し、翌1972年5月1日より更に規模縮小したSTDAT158(Strategic Technical Directorate Advisory Team 158=NKT顧問チーム158)がMACVの指揮下に組織され、8月1日にLSADは規模を縮小し、10月半ばにTFAEは活動を終了する。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

STDAT158組織図。LN SVC ADV DET=LSAD, SPEC MSN SVC ADV DET=SMSAD。

STDAT158:始動1972年5月1日、終了1973年3月12日
HQ(司令部、81名)
TRG CTR AD(B53から続くロン・タン訓練センター顧問分遣隊):始動1972年5月1日、終了1972年11月10日
LSAD:始動1972年5月1日、終了1972年11月3日
SMSAD:始動1972年5月1日、終了1972年11月15日
SMF:始動1972年7月19日、終了1973年3月5日
CRF:始動1972年4月22日、終了1972年10月31日
OPNS/INTEL ADV Div(Operation/Intelligence Advisory Division=作戦/情報顧問課):始動1972年5月1日、終了1972年12月1日
LOGISTICS ADV Div(兵站顧問課):始動1972年5月1日、終了1972年3月12日
COMPT/BUDGET ADv Div(Comptroller/Budget=会計監査/予算計上顧問課):始動1972年5月1日、終了1972年3月12日

SOGの部隊は国境を越えて敵地深くに侵入するので、無線通信機の通信範囲から外れてしまう問題があった。また、極秘任務に従事しているため、たとえ緊急事態に陥っても、作戦に無関係のラジオステーションにコンタクトすることは許されていなかった。そのためにラオス国内、南ベトナム領内のラオス及びカンボジア国境付近にラジオリレーサイト、ミッションサポートサイト(MSS)と呼ばれる無線中継基地をいくつか建設した。基地は、通信施設、指揮管理所、発電機、LZ(ヘリパッド)、生活宿舎、トイレなどから構成され、NVAやパテート・ラオからの攻撃をかわすため、急峻な山の頂や崖の上に極めてコンパクトに作られた。FAC(前線航空統制官)との連携でより広範囲でSOG潜入チームをサポートし、LS(ランチサイト)としても機能した。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
レッグホーン・ラジオリレーサイト(左)。SMS隊員のクレイ・カーティス氏と通訳のペオ氏。1972年頃撮影。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

SMF組織図

このラジオリレーサイトのうち最も名を知られているものが、レッグホーンMSSだ(イーグルズネスト、ジブラルタル、Golf5とも呼ばれた)。レッグホーンMSSはラオス王国南東、アッタプー県のジャングル山岳地帯の標高1000mの山頂に建設された。南ベトナム側からは、ダクトー基地から北西に43km、ラオス国境から10kmの位置だった。
1972年7月19日、レッグホーンMSSに配属のGolf5警備中隊のアメリカ人14名、SCU150名がバンメトートからプレイクの第36顧問隊(MACV Advisory Team 36)へ移され、SMF(Special Mission Force)として再編成された。
SMFはセダン族、ラーデ族、ジャライ族と少数のヌン族、キン族(ベトナム人)と21名(うち3名はSTDAT158司令部付きと思われる)のアメリカ人から構成された。彼らの任務は、回収ミッション、墜落地捜索ミッション(Crash Site Inspections)、捜索/救出援護ミッション(Search & Rescue Assistance)を南ベトナム、場合により他の東南アジア諸国で、捕虜回収作戦援護のための情報収集ミッションを限定的に南ベトナムで行った。
SMF実働部隊は3個小銃小隊からなり、3名のアメリカ人、45名のSCUで構成された。
CRF(Coastal Recovery Force)はSTDの沿岸警備部隊(南ベトナム海軍シーコマンド・高速巡視艇部隊)、CSS(Coastal Security Service)のための顧問援助部隊で米海軍SEALの隊員が基幹要員を務めた。

1972年11月中旬までに、LSAD、SMSAD、TNG CTR AD、CRFが順次閉鎖され、STDAT158は更に規模縮小し、最終的に次のような編成になる。

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縮小後のSTDAT158組織図

STDAT158
OFC of the COMMANDER/SENIOR ADVISOR(司令官/上級顧問執務室)
OPNS/INTEL ADV Div
LOGISTICS ADV Div
COMPT/BUDGET ADV Div
SMF

兵站顧問課は補給部門と支援部門から構成されていた。72年10月に仮兵舎、クラブ、中隊事務室以外の権限を支援部門から補給部門へ移管し、11月16日以降、両部門を統合し補給部門のみとなった。兵站顧問課は1973年3月6日、House50(タン・ソン・ニュット空港近くのグエン・ヴァン・ソアイ通り50にあったMACV SOGの兵站補給事務所とされている)に機能移管し、3月12日に公式に活動を終了した。

5th SFG(A),Δ,Ω,Σ

ベトナム戦争における第5特殊部隊群の司令部(HQ)はニャチャンにあった。A,B,C,D及びE{臨時編成。67〜68年特殊作戦(Special Operation)、68年〜通信(Signal)}の5個中隊から編成されており、それぞれの中隊本部を1〜5のC分遣隊(ODC)が担い、その統制下にグリーク・レター部隊やマイクフォース(MSF)、キャンプストライクフォース(CSF)を運営するODB、ODAが配属された。
番号の振り方についてだが、ODB-**の2桁目はODCの番号に準じ、ODA-***の2桁目3桁目はODBの番号に準じており、それぞれ1桁目が各BチームとAチームの固有番号となっている場合が多いようだ(ただ、例外もあるので断言はできない)。
1968年10月31日までの第5特殊部隊群作戦報告をまとめた機密公開文書での組織図は以下の通り。

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Operational Report - Lesson Learned, Headquarters, 5th Special Forces Group (Airbone), 1st Special Forces, Period Ending 31 October 1968*68年8月1日〜10月31日までの各部隊における対反乱作戦についての報告書(報告日68年11月15日)より*


SFOB HQ 5th SFGA 第5特殊部隊群(空挺)司令部
駐屯地:カイン・ホア省ニャチャン
62年10月にS1(人事部)とS4(兵站部)として開設、63年2月にUSASF HQに。71年3月閉鎖。

C-1(Company C) 第1軍戦術区
駐屯地:クアン・ナム省ダナン
開設64年11月/閉鎖70年11月
C-2(Company B) 第2軍戦術区
駐屯地:プレイク省プレイク
開設64年11月/閉鎖71年1月15日
C-3(Company A) 第3軍戦術区
駐屯地:ビエンホア省ビエンホア
開設64年11月/閉鎖71年1月1日
C-4(Company D) 第4軍戦術区
駐屯地:フォン・ディン省カントー
開設64年10月/閉鎖70年12月16日
HHC 本部及び本部中隊
C-5(Company E)
駐屯地:ニャチャン
開設66年?/閉鎖年不明
585th MI DET (Military Intelligence Detachment)
第585軍事情報分遣隊(J2)
MI DET
第588、613、629、630、631、633、634軍事情報分遣隊
21st MHD(21st Military History Detachment)
第21軍史編纂分遣隊
ODA-502
ニャチャン警備部隊
駐屯地:カイン・ホア省Camp Trung Dung
開設64年3月/閉鎖70年1月30日
B-55
第5マイクフォース司令部(5thMSFC)
駐屯地:カイン・ホア省ニャチャン
開設64年11月/閉鎖70年12月
B-51
LLDB訓練センター
駐屯地:カム・ラン省Dong Ba Thin
開設64年4月
B-52
プロジェクト・デルタ
駐屯地:カイン・ホア省ニャチャン Camp Nguyen Van Tan
開設64年5月15日/閉鎖70年7月31日
CMD IN DET
司令部情報分遣隊
MACV RECONDO
リーコンドースクール
駐屯地:カイン・ホア省ニャチャン
開設66年9月13日/閉鎖70年11月
SIG DETS
第251、487、522、540通信科分遣隊
31st ENGR(31st Enginner Detachment)
第31技術科分遣隊
NT IDC(Na Trang? Installation Defense Command)
ニャチャン(?)軍事施設防衛司令部
403rdSOD(Radio Research)
第403特殊作戦分遣隊(通信研究)
駐屯地:カイン・ホア省ニャチャン
開設66年/閉鎖70年

*68年10月31日までの報告書に基づく。この時点で既にB50、B56は記載がない、WRAIR/FEST(Walter Reed Army Instutute of Research/Field Epidemiological Survey Team)=ウォルター・リード陸軍調査研究所/野戦疫学調査チームは第5特殊部隊群から分離されているので載っていないと思われる。

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MACV SOG PUC(大統領殊勲部隊章)。見辛いので線を引いた。

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Operational Report - Lesson Learned, 5th Special Forces Group (Airbone), 1st Special Forces.1967年1月31日までの報告書から。


C-5の駐屯地は、MACV SOGのPUC(大統領殊勲部隊章)によれば、ホー・ゴック・タオ、オメガはコンツムとなっており、上の機密公開文書ではオメガと共にニャチャンとなっている。C-5がホー・ゴック・タオというのはよく分からないが(上で纏めた一覧では文書の方に合わせてニャチャンにした)、オメガは66年11月にコンツムに移ってきているので、それ以前はニャチャンに駐屯していたのかもしれない。B50、B56は67年11月1日以降はMACV SOGとSTDの指揮下になった可能性が高い。
PUCのC-5(Company E)の表彰該当期間は1967年6月1日〜1967年10月31日となっている。当時カンボジアは聖域とされ、ラオスよりも越境作戦の開始は遅く実際に開始したのは67年6,7月あたりとされている。カンボジア越境作戦に専属であたったアメリカ空軍第20特殊作戦航空隊(20th Special Operation Squadron)通称「グリーン・ホーネッツ」はタイ王国ナコーンパノム県に駐屯していた第606航空特殊中隊(606th Air Commando Squadron)所属のUH-1F及びPヘリコプター15機が「ニャチャン 」に戻され編成されたが、これがまさに67年6月であったことも裏付けといえるだろう。

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第20特殊作戦航空隊グリーン・ホーネッツのミニガン搭載型UH-1Pヘリコプター。

PUCではB50、B56も表彰対象になっているがいずれの表彰対象期間もC-5と一致する。以上のことと「5」という数字からして、実働期間5ヶ月という短期間ながら、第5特殊部隊群によって対カンボジア越境作戦が行われていた可能性があると考えられるかもしれない。指揮権がSOGとSTDに移った(?)67年11月、B50、B56の隊員はFOB#5バンメトートに異動している。そして69年1月にはFOB#5はCCSとなる。有名なSOG RT隊員のジム・ボーレン氏はプロジェクト・オメガからCCSという経歴であり、偶然かもしれないが、自然な一致を見出せる。
なぜSOGのPCUに5thSFGのC分遣隊の名前が載っているのか引っかかる部分もあるが、指揮下にあったシグマ、オメガ部隊がSOGに編入したのだから敬意を評したのかもしれない。あるいは逆説的に、実際に越境作戦していたことの証左なのかもしれない。いずれにしてもPCUが対カンボジア越境作戦開始〜プロジェクト・オメガ及びシグマの指揮権移管(?)までを対象期間にしているのは間違いない。

FBで目にした元シグマのベテランの証言では、「私はシグマが南ベトナム軍に移管される前の最後の人員だった。私はシグマの木製プラークを異動先のCCSに持って行き、帰国の際も持って帰った」と語っていた。もしかしたら、シグマ、オメガは初動段階では米軍主導のプロジェクトで、軌道に乗ったところで南ベトナム軍に指揮権を移譲したのかもしれない。

グリーク・レター部隊はあと一つある。B57プロジェクト・ガンマだ。断片的な情報からガンマ作戦は通信や情報、心理戦、諜報活動を主とするものだったようだ。
元となる部隊はB55から選抜され情報収集網としてサイゴンにいたが、66年8月1日、一部のSF隊員が第525軍事情報分遣隊の人員と入れ替わり、B57分遣隊として再編成され、67年6月1日にサイゴン市911 Cao Ba Nha(グーグルマップで検索するとホーチミン市の通りがヒットする)からニャチャンのSFOBへ移動した...とされている。Bナンバーを振られているということは、5thSFG並びにC-5が関わっている可能性が高いが情報が少なすぎて詳しいことは分からない。前述の68年8月1日〜10月31日までの5thSFGの報告書に一箇所のみ、B57の文字が見つけられたが、これだけでは作戦統制権がどこにあったのか判断できない。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

第5特殊部隊群の各中隊と分遣隊の人員数(PCSとTDYと非拠出型雇用なので民間登用?)。DET B57の文字が確認できるがこの一箇所のみだ。数字も何だかとても怪しい。

CIAからDoDへ~ケネディ政権の舵取り~

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
1962年10月29日、午前10時10分、ホワイトハウス西翼閣議室。ジョン・F・ケネディ大統領、ディーン・ラスク国務長官、ロバート・S・マクナマラ国防長官、後ろに立っているのはピエール・サリンジャー ホワイトハウス報道官。
1962年10月14日、キューバ危機勃発により10月22日の
国家安全保障行動覚書NSAM196に基づき設置された国家安全保障会議執行委員会、通称EXCOMM(Executive Committee of the National Security Concil)。EXCOMMは通常の国家安全保障会議(NSC)の全9名のメンバーに国務次官、ソ連問題担当顧問など4名を加え、多数の専門分野顧問のサポートを受け核戦争の危機回避に当たった。


国家安全保障会議
NSC(United States National Security Council)。1947年、国家安全保障法を根拠法とし設立された。国家安全保障問題担当大統領補佐官を担当者とし、正式メンバーとして大統領、副大統領、国務長官、国防長官。軍事面での顧問を統合参謀本部議長、情報面での顧問にはCIA長官(現在は国家情報長官が務める)がつく。アメリカ合衆国の外交を含む安全保障政策の最高意思決定機関。合衆国の各組織からの報告を、閣僚と各分野専門スタッフが大統領のアドバイザーとなり審議する。

大統領直接行動
アメリカ合衆国大統領は広範囲にわたる行政特権を有し、特に外交や安全保障に関する問題、戦争など緊急時には議会を通さず、大統領直接行動として法的に有効な命令を発することができる。特に安全保障分野においては、行政命令と国家安全保障令の二つが大統領行政特権行使の重要な道具となる。

行政命令
行政府機関に対して法的拘束力のある命令。行政府組織の一般的な権限、原則的な取り決めに対して命令することが多い。また行政府文書に対して機密指定ができる。行政命令の有効化までのプロセスは簡略かつ迅速である。起案が行政管理予算局長官の承認を受け、司法長官により適法性審議を受けた後、連邦登録局において書式確認されて大統領が署名する。
行政命令は法令によって、制定順規則集に記載して公開することが義務付けられているが、必要であれば機密指定することにより非公開にすることもできる。

国家安全保障令
合衆国の各組織からの情報を審議し決定される、安全保障、外交、軍事、インテリジェンスに関する大統領令。公開義務がないためCIAの作戦や特殊軍事作戦といった非公然活動への指針や指令に用いられる。政権が変わると国家安全保障令の名前も変わる。
トルーマン、アイゼンハワー政権
NSC policy paper:国家安全保障会議政策文書
ケネディ、ジョンソン政権
NSAM(National Security Action Memorandum):国家安全保障行動覚書
ニクソン政権
NSDM(National Security Decision Memorandum):国家安全保障決定覚書

CIA
中央情報局。1947年、NSCと同じく国家安全保障法のもと設立された、NSCの直轄機関。アメリカには10を超える情報機関が存在し、それらからの情報を収集し分析しているとされている。また、CIA自体も諜報員を使った情報収集活動を行なっている。
現在は情報機関の統括は国家情報長官が取り仕切っているが、ベトナム戦争当時はまさに"中央"情報局としての発言力を今以上に有していたと思われる。

1960年代初頭までベトナムにおける特殊作戦はCIA主導のもと実行されていた。1960年、ウィリアム・コルビーがCIAサイゴン支局長としてベトナムに着任する。
1961年4月15日から19日に起こったピッグス湾事件はアイゼンハワー政権時代にCIA主導のもと立案され、ケネディ政権に引き継がれたが失敗に終わった。ケネディ大統領以下、閣僚は真の意味で、このCIAの作戦をコントロールしていなかった。マクナマラ国防長官によれば、これは以前より計画を進めてきたCIAに対する遠慮から、積極的に問題に取り組む姿勢をとらなかった為という。また、準軍事作戦、秘密作戦といった活動への理解や指針が不十分だったのではと考える。
この反省を踏まえて認証された三つの国家安全保障行動覚書(NSAM)が、NSAM55,56,57号である。

NSAM55
タイトル:冷戦下作戦における大統領と統合参謀本部の相関
日付:1961年6月28日
寄稿者:ジョン・F・ケネディ大統領
TO:統合参謀本部議長(ライマン・レムニッツァー陸軍大将)
CC:国防長官(ロバート・マクナマラ)
   マクスウェル・テイラー陸軍大将
   Mrs.Lincoln(恐らくエヴェリン・リンカーン。ケネディの個人秘書)
   Mr.Smith(不明)
   McG.Bundy's file(マクジョージ・バンディ国家安全保障担当大統領補佐官の書類にファイリングせよといった意味だと思われる)

本文
私は以下に示す、冷戦下作戦における、統合参謀本部の私との関係性についての私の展望(my views)を統合参謀本部に通達のことを希望する。

a.統合参謀本部は私の第一(principal)の軍事顧問であり、私に対する助言の率先と私の求める助言への対応の双方に責任を負うものと見なす。統合参謀本部の助言は私へ直接かつ検閲無し(unfiltered)であることを期待(expect)する。

b.統合参謀本部は冷戦下においても、従来の戦時下と同等の国防への責任を持つ。統合参謀本部は、軍事部隊および準軍事部隊とそれらの資源(resources)は国防総省が準備状況の検証、精度の報告、展開と改善への適切な勧告をし運営することを理解しておくべきである。私は参謀長諸君に、冷戦下作戦における軍事、準軍事的な局面での成功への活発かつ想像力のある統率力による貢献を期待する。

c.私は統合参謀本部に、政府諮問会において、軍事的要因への明確な理解を保証する様な軍事的見地を、決議に達する以前に提供することを期待する。統合参謀本部議長もしくは参謀長単独での出席の場合、参謀長集団の代表と看做され、必要であれば、実際に統合参謀本部の総意を代理することを保証する、準備的で将来的な行動を取らなければならない。

d.私が参謀長を予備的でなく、もしくは逡巡なく軍事要因として期待する間、軍人以上の存在であると評価し、あらゆる情勢下の総合的状況に対する軍事的要件に合致する援助を期待する。また私は政府において最も困難な問題が、全ての資産を一元的で効果的な様式に組み合わせることであると認識する。

NSAM56
タイトル:準軍事的要件の評価
日付:1961年6月28日
寄稿者:マクジョージ・バンディ国家安全保障担当大統領補佐官
TO:国防長官
CC:国務長官(ディーン・ラスク)
   CIA長官(アレン・ウェルシュ・ダレス)
   マクスウェル・テイラー陸軍大将

本文
大統領は以下の文章を承認した:

「不正規戦争と準軍事作戦の分野において、我々に起こりうる将来的な事柄について予想することは重要である。我々がこの分野において達成すべき目標に向けてするであろう第一段階は、我々が合衆国軍に保有する準軍事資産の目録化と、世界各地における我々の政策実行が恐らく要求するであろう現地準軍事力を熟考することである。資産と実行可能要件を決定することは、策定中の計画を損失に直面させる問題となるかもしれない。」

大統領は、国防長官が国務省とCIAと協調して、これら要求条件を満たす要件と推奨方法、手段の概算見積を要請する。

マクジョージ・バンディ

NSAM57
タイトル:準軍事作戦に対する責任
日付:1961年6月28日
寄稿者:マクジョージ・バンディ国家安全保障担当大統領補佐官
TO:国務長官
国防長官
CIA長官
CC:マクスウェル・テイラー陸軍大将
   Mrs. Lincoln
   Mr. Smith
   Mr. McG Bundy file

本文
大統領は添付した勧告を承認した:

特別グループ(5412委員会)は戦略リソースグループへの勧告において割り当てられた機能を果たす。

準軍事作戦に対する責任
1.この研究において、準軍事作戦はその軍事要員に関する戦略と要件、装備、訓練が正規軍事作戦のそれに近似するものの一つであると考えられる。準軍事作戦は、既存の親米政府もしくは我々に敵対する政府の打倒を試みる反政府組織の支援のために約束されるであろう。合衆国はそのような作戦に公然、非公然、あるいは両方の組み合わせで援助を提供するであろう。これら作戦の規模に関しては、小部隊のゲリラの浸透から、キューバ侵攻のような軍事作戦まで変化するであろう。小規模な作戦は、しばしば単独組織の通常能力の範囲に完全に収まるだろうが、大規模になると行政、国防、CIA、USIA(アメリカ合衆国情報局)そして他にあり得る省庁と組織に影響を及ぼすであろう。

2.冷戦という状況の中で準軍事作戦を最大限の有効性かつ柔軟性で実施するために、現在の指令と手順を修正し、以下を有効にすることを勧告する。

a.いかなる構想段階の準軍事作戦案も、大統領の承認と初期検討の為に、必要に応じて戦略リソースグループに提出されなければならない。提出後、戦略リソースグループは作戦を成功に導くに当たって最適なタスクフォース、部局もしくは個人に、作戦計画および各部門の調整と遂行に関する主要責任の配分と支援責任の指示を行う。この原則の下では、非公然準軍事作戦への責任は、通常、国防総省が負うものとする。この様な作戦の存在が完全に非公然、あるいは否定可能で局の能力に収まるものであれば、CIAに振り分けられるであろう。著しい数の軍事訓練済み人員を必要とし、CIAが通常、管理備蓄する軍事物資を上回る、またもしくは軍隊特有の種類かつ水準の軍事技能に達する、いかなる大規模作戦も完全非公然、一部非公然に拘らず、主要責任は厳密に国防総省が負い、CIAは援助役となる。

1961,62,63そして64
北ベトナムはインドシナ戦争終結後の1954年7月ジューネヴ協定が調印されるとホーチミン・トレイルは使用を停止したが、統一選挙がご破算になると再使用に向けて活動を始めた。
トレイルはラオスとベトナム国境沿いに1,100kmに渡って伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈とも)を縫うように走っていた。1959年5月19日、トレイルの再開発および維持を目的として559チュオンソン軍団創設の決定が下された。
北ベトナムにおいては、559道路、チュオンソン山脈トレイルと呼ばれたホーチミン・トレイル(ルート)は、1万3000mを超える自動車幹線道路とこれに平行する徒歩道路網、接続横断道路、巡回路、迂回路などそれぞれ数千メートルに及び、ベトナム人民軍と解放軍(南ベトナム解放民族戦線)の補給路、進軍路として機能した。
トレイルはラオス、カンボジアから南ベトナム領内までも張り巡らされ各地に前線基地や進軍する部隊のため補給所、休憩所が配置されていた。カンボジアにはCOSVN(南部中央局)と呼ばれる、政治及び軍事中枢機関、いわば共産軍の前線司令部が置かれた。COSVNが存在したとされるFishhook Area(魚の釣り針地域)はカンボジア南東部コンポンチャム州の南ベトナムタイニン省への国境線突出地域でサイゴンから北西に80kmという位置だった。
フィッシュフックには第352と第353本拠地、人民軍第7師団がいたとされ、69年3月18日より開始されたB52ストラトフォートレスによるカンボジア秘密爆撃作戦(メニュー作戦)の初動作戦である、ブレックファスト作戦の目標地域にされた。また陸上特殊作戦においてはMACV SOG CCSの作戦地域でもあり、北ベトナム拠点への襲撃、COSVN捜索、爆撃地域選定といった任務でSOG部隊が投入され、70年4月、遂にはカンボジア作戦で南ベトナム軍と米軍の正規部隊の侵攻地域となった。
ホーチミン・トレイルはベトナム人民軍最大の武器であり、北ベトナムにその実体以上の「国土」を与えていた。
1960年以降、増長し続ける北ベトナム軍の浸透は南ベトナムとアメリカにとって当然無視できない火急の問題であった。

CIAはMAAG内のCSD(Combined Studies Division)というカバー組織を用いて、グリーンベレーを指揮した。CIAがベトナムで企画した準軍事作戦のうちよく知られるものに、パラソル作戦(Operation Parasol)とVDP(Village Defense Program:村落防衛計画)がある。
パラソル作戦は南ベトナム政府軍特殊部隊をパラシュート降下にて北ベトナム領内に侵入させるものだった。
ペンタゴンペーパーによれば1963年5月、アメリカ太平洋軍司令部にてCINCPAC OPLAN 34-63の立案が開始され、6月17日、統合参謀本部によって完成する。パラソル作戦がOPLAN34-63として、作戦統制権がCIAから国防総省へと移されることが決定したのが7月と言われており、9月9日にマクスウェル・テイラー統合参謀本部議長により対北ベトナム作戦として実行が決定された。軍事作戦として実際に始動したのは、恐らくMACV SOGが設立された1964年1月24日以降であると考えられる。OPLAN34-63は後にOP34Aとして知られるようになる。マクナマラ国防長官は「マクナマラ回顧録」において一貫してOP34A作戦と呼称しているが、米軍を統括する文官の長として、対北軍事作戦はCIAのパラソル作戦ではなく、国防総省のOP34A作戦だったという認識によるものと思われる。因みに彼のOP34A作戦に対する評価はあまり芳しいものではなかったようである。

VDPは南ベトナム内の少数民族の村落をグリーンベレーの作戦基地とし、且つ村民に各種援助や軍事訓練を施し、共産主義勢力への自衛力を持たせるというものであった。
かなりややこしい、似たような計画に南ベトナム政府(ゴ・ディン・ジェム政権)とMAAGにより実行された「戦略村計画(Strategic Hamlet Program)」がある。戦略村計画は1961年11月13日、ロバート・トンプソンがジェム大統領に提案したことから始まった。計画は62年4月に南ベトナムの議会にて承認された。
トンプソンは英国王立空軍士官(最終階級は大尉だったようだ)として英領マラヤで公職に就いた。第二次世界大戦が始まり、日本軍がマラヤに侵攻するとビルマに転戦し、そこでオード・ウィンゲート少将の連絡士官となりチンディット(英領インドの特殊部隊で日本軍の後方撹乱、長距離浸透作戦を任務とした)のために働いた。
対戦が終結するとマラヤに戻り、対反乱作戦の精通者としてマラヤ動乱において戦略村を実施し、成功を収めた。1960年、ディエム大統領から、マレーシア初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンへの要請を受け南ベトナムへ軍事アドバイザーとして着任した。トンプソンは1961年から65年までBRIAM(British Advisory Mission to Vietnam:イギリス顧問団)の長を務めている。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

サー・ロバート・グレンジャー・カー・トンプソン(左)。対ゾンビ要塞戦略村、1962年頃(右)。

1961年6月のNSAM55、56、57に基づき、パラソル作戦と同様に、VDPをMACV指揮下に移すためのスイッチバック作(Operation Switchback)が発動された。1962年2月にMACVが設立され、62年7月、国防総省は特殊部隊の作戦の全責任をMACVに移す決定を下した。62年9月、スイッチバック作戦に基づき、ベトナムにMACV指揮下に陸軍特殊部隊司令部が活動を開始、10月時点で24個の特殊部隊分遣隊が展開した。翌月にはC分遣隊1、B分遣隊3、A分遣隊24がサイゴンの特殊部隊司令部にいた。切り替えは段階的に進められたようで、まず訓練と作戦、63年6月30日までに兵站と資金調達、翌7月に完全にMACVに引き継ぎが完了し、VDPはCIDG計画となった。

CIDG計画では、歩兵部隊的なキャンプ・ストライク・フォース(Camp Strike Force:CSF)と空挺、空中機動、エアポート部隊などのモービル・ストライク・フォース(Mobile Strike Force:MSFもしくはMF)が組織された。これらは少数民族の村落そのものを基地にしたり、要所に作られた基地にCIDG兵士が駐屯するものであった。対して戦略村計画は共産勢力の封じ込めに適すると判断した地域に新たに要塞化した村を作り、村落の住民そのものを移住させるというものだった。現在、一般に、戦略村計画のような強制移住計画はベトナム少数民族に対しては反発も多く、上手くいかなかったとされている。戦略村計画は64年6月頃までに放棄された。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

キャンプ・ストライク・フォース、略してCSF。1964年11月下旬の中部高原地帯(左)。モービル・ストライク・フォース、略してMSFもしくはMF。同じCIDG部隊である、CSFとの最大の違いは彼らが空挺歩兵ということだろう(右)。

CIDG計画で最初に特殊部隊基地として選定されたのはダルラク省のブォン・エナオ村(Buon Enao。南西に有名なバン・メ・トートがあり、その更に南西にボン・サ・パ、北にブォン・ブリエン(2CTZ)、南東にブォン・ミ・ガ、などのCIDGキャンプが位置する)で、沖縄の第1特殊部隊、ロナルド・シャクルトン大尉以下8名からなるA-113分遣隊が先遣部隊として投入された。
ブォン・エナオ村周辺はラーデ族が多く居住しており、村には約400名のラーデ族が暮らしていた。ブォン・エナオが最初のCIDGサイトとして選ばれた理由は、ラーデ族が少数民族の中でも最も経験豊富かつ社会的に進歩している(あくまでアメリカ人の視点からではあるが)と考えられており、彼らの中には第一次インドシナ戦争のフランス植民地軍のベテランが多くおり、またダルラク省が解放民族戦線の危険に晒されている主要な地域だと目されていたためだとされている。
1962年2月よりA-113は、ブォン・エナオ村をCIDG計画への監督、管理、支援のためのダルラク省における作戦基地にする準備を始めた。つまりブォン・エナオは現地人訓練、村落の防御柵、防御壕構築の向上のための評価対象として企画されたのだ。
またブォン・エナオでは、威力偵察、早期警戒、通信、情報集と報告、人口管理、近隣村落との相互援助といった後のCIDG計画に繋がるシステムが実行された。
A-113の活動は同年8月までにその効果を示し始め、2月から8月までの間に40あったCIDG村は10月の時点で4,000㎢に200にまで増加し、ダクラク省の12万のモンタニヤードの半数以上が数千の村落防衛隊員と1,500名のストライク・フォースにより守られることとなった。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

ブオン・エナオと周辺のAキャンプを中心にVDP(CIDG)村が広まっていった(左)。ブオン・エナオの第1特殊部隊下士官とラーデ族の兵士(右)。

NSAM55、56、57は、ベトナムへの米軍本格介入の時代背景と照らし合わせていくと、非常に重要な意味を持っていると考えられる。一般に、この三つのNSAMによって、アメリカの不正規戦争、特殊作戦の指揮権がCIAから国防総省に移されたとする論調が多いようだ。これはピッグス湾事件やマクナマラのDIA創設、ケネディやマクナマラのCIAへの不信感があったとする説にその根拠を求めていることが多い。事実、VDPもパラソル作戦も国防総省の主導となっているが、NSAM57をよく読むと不正規戦の規模によって担当組織のキャパシティを考慮し、指揮統制役、サポート役を決定するというのが本来的なスタンスであったことが理解できる。
そしてその決定を最終的に下すのは国家安全保障会議であり、その情報顧問はCIA長官が担当する。当時のCIAはまさに米国情報機関の中央局であり、米国が保有するいくつもの情報機関のデータの集約先であった。NSAM57はピッグス湾事件の反省から、CIAのその曖昧かつ広範な権力に一定の線引きを示したことは間違いないが、完全にCIAを蚊帳の外にしたと結論づけるのは余りに短絡的かもしれない。政府閣僚個人の各組織に対する評価やしがらみ、組織の利権は確かに存在するが、国家の運営はその様な微視的な要素によって大きく左右されてはならないし、各組織の微妙なバランスによって成されていくのが実際的と思われる。大統領というトップの下、このバランスを整合し国内外の問題に対処していった結果がアメリカ合衆国という超大国だと考える。
CIDG系の作戦、MACV SOGのトップシークレットの対外作戦など、米国がベトナムで展開した特殊作戦の責任の配分の内訳はある程度推し量ることはできても完全に明らかにするのは困難であろう。何しろその最終決定を下す国家安全保障会議の発行するNSAMは、その絶大な効力とは裏腹な覚書(Memorandum)という名の通り、確実に指示を断言する性格ではなく、責任の分散化を重要視しているようだからだ。NSAMは曖昧かつ的確という矛盾する性能の文書であり、これはNSAMが特殊作戦への指令として多用される所以でもある。
これは勿論、推測に過ぎないが...南ベトナム全土に展開し規模が大きく、作戦の性格が歩兵部隊的で、膨大な兵站能力が要求されるCIDG系計画や南ベトナム領内で情報集していたB52は第五特殊部隊群の指揮であるから軍(国防総省)に大きく責任が振られ、小規模で高度な秘匿性を要求され、より準軍事的で非合法スパイ行動ともいえるSOGはCIAも多く関与...などと無数に可能性を想像できるのが、特殊作戦を考えることの楽しみであり又、悩ましい部分だと感じる。


プロジェクト・Γ(ガンマ)殺人事件
プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
ロバート・ブラッドレイ・ロー大佐
1925年10月31日ボストン生まれ。母はボストンの名門の出。カナダ出身の父は王立カナダ騎馬警察に勤めたのち、金融仲介人として働いていた。
家族の夕飯の席ではフランス語で会話が行われた。夏休みにはワイオミングでカウボーイの職業体験に参加した。
ニューハンプシャーにあるフィリップス・エクスター・アカデミーに入学した。1778年創立の全寮制学校でアメリカにおいて特に権威のある"The Ten Schools" の一つに数えられる超名門校である。FEAを卒業後、ウェストポイントに入学する。1946年ウェストポイントを卒業し、パリ大学に入学、ジョージ・ワシントン大学で国際関係の学位を取得した。朝鮮戦争では第3歩兵師団で中隊長を務め銀星章を受けている。
朝鮮戦争後、1650年代半ばの数年間はウェストポイントでフランス語を教えた。60年に特殊部隊Qコースを修了し63年まで西ドイツ駐留の第10特殊部隊群に配属され、東西ドイツ国境線での任務、ヒマラヤでの対中国監視任務、ヨルダン、パキスタン、チュニジアとイランにおける軍事顧問任務など、世界を股にかけ活動した。
最初のベトナム従軍は1964年、沖縄の第1特殊作戦群の情報及び作戦士官としてだった。二度目のベトナムツアーは1969年5月で第5特殊部隊群の司令官に着任した。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
LIFE誌の表紙を飾ったロー大佐。

第5特殊部隊群デルタ中隊(C-4, Company D)414アルファ作戦分遣隊
テリー・マッキントッシュ三等軍曹の想い出

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
 
マッキントッシュ三等軍曹とA-414が駐屯したThan Tri特殊部隊キャンプのゲート。

1969年。
ベトナムに着任してから7ヶ月後、私は第5特殊部隊群414アルファ作戦分遣隊(ODA-414)に配属された。部隊の作戦地域はベトナム、ケン・トゥオン省(Kiến Tường)のメコンデルタであった。
ODA-414のベースキャンプはカンボジア国境から約2kmに位置しており、近隣国の北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線に対する前線防衛線を張っていた。
それに加えてODA-414は、最高機密の情報収集作戦「柵越え」をカンボジア国内で行なっていた。
その情報網はプロジェクト・ガンマ(ガンマ作戦)の一翼を担っていたが、合衆国とベトナム共和国の間での取り決めや、我々のカンボジア侵入を禁止する政治的制約が存在した当時、このような作戦は違法であった。
ガンマ作戦としては、この基地の立地は貴重だった。
ガンマ作戦を担当するB57情報室(B57 Intelligence Office)は、この間諜網の運営のために3名の男を派遣した。彼らは秘匿名を持っており、それぞれ、「マーティン大尉」、無線オペレーターの「スコッティ」、ケースマネージャーの「マイク」だった。彼らはカバーネームによって、いざとなれば痕跡も残さず一時にして消え去ることができるのだ。所謂スパイであったが、それは同時に、彼らがジュネーヴ条約の保護の対処外であることを意味していた。
マーティン大尉の実名はロバート・マラスコとして良く知られており、法廷記録にも残されているが、私はこの場において、彼に関する如何なる新情報も明らかにしない。スコッティとマイクの実名は良く知られていない。
マイクは私にとって兄のような存在であり、また、ここではマイクとスコッティのプライバシーを尊重したい。
マラスコの情報網と約20名の現地工作員は、パロッツビークと呼ばれる、VCのカンボジアにおける拠点の探査、更にカンボジア国王子(ノロドム・シハヌーク殿下)の所在を常時監視していた。私にあてがわれた任務は情報報告文書の暗号化、解読、送信、受信を含んでいた。私は殆どの時間を、戦闘偵察を指揮する国境の前進作戦基地(FOB)内で過ごしたが、必要であればマラスコのチームで、彼とスコッティのカンボジア国内における秘密作戦を手伝った。

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マラスコ大尉

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
マラスコ(右)と「スコッティ」

二重スパイ、タイ・カック・チュイエン登場

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
チュイエン氏

我々の全ての通訳が殺されるか負傷をしており、チュイエンは時折、モク・ホア(Mộc Hóa)の特殊部隊Bチーム41(B41)から貸し出されていた。北ベトナム出身の31歳で、彼は後にチュー・ヴァン・タイ・カックとして認識されることになった。
どちらの名前が真正なのか確証はないが、当時の私は彼をタイ・カック・チュイエンとして認識していた。
チュイエンの原隊での役職はS5(Staff 5=心理戦)の通訳であり、彼のハンドラー(指導責任者)はアルヴィン・スミス軍曹、またの名をペーター・サンズとして知られる有名なCIA要員で、軍事情報の提供とB57を拠点にモク・ホアで活動していた。
彼はガンマ作戦の指揮系統内におけるマラスコに対して責任を負っていた。
チュイエンの短い基地滞在期間中、私自身、彼とアンブッシュパトロールを共にしたことがあった。

1969年2月19日、チュイエンと私はある地域における、目標VC存在の予測を元に待ち伏せした。私はその情報報告が誰によるものか知らず、ただ命令に従い任務についた。ある時の明け方近く、私は暗視スコープ越しに樹木線に沿ってVCが動くのを発見した。人数は同定できなかったが、彼らがモク・ホアへ直進していくのが確認できた。私はチュイエンと他の隊員に警戒するよう伝え、彼に行動準備と待機させた。私はM79グレネードランチャーを選択し、VCめがけて一発空に放った。
グレネードが炸裂すると、隊員たちは着弾方向に猛烈な制圧射撃を加えた。VCは反撃してこなかった。
私が暗視スコープを掴み再度覗くと、彼らが木々の中に逃げ帰って行くのを見ることができた。チュイエンにスコープを渡して覗かせると彼は笑っていた。私は少し奇妙に思ったが、深く考えず気にかけなかった。

私はFOBに迫撃砲の支援要請を試みたが、応答はなく、無線機は無変調(デッド・エアー)を示すのみだった。
私は「チャーリー」を追撃する事に決めた。戦闘準備(ロック&ロード)をかけると、隊員たちは逃走する敵の後を追いかけた。私たちは樹木線までの短い距離を思い切り駆け抜けると...私は隊員達を誇りに感じていた...横一列に隊形をとって、ジャングルに向かってあらん限りに撃ちまくった。火力に任せて猛烈な弾幕を張った。
チュイエンは私の左側に、他の隊員は右側に並んでいたのだが、私はチュイエンが銃をいじくり回して発砲していないことに気がついた。後に彼は銃が弾詰まりを起こしていたと主張し、私は疑いなくその説明を受け入れた。

FOBでは、チームメイトのメサ特技兵が空を彩る爆発と曳光弾の閃光を目にして、私たちが接敵したことを察していた。彼もまた私に無線を繋げられなかったため、私が傷を負ったか殺されたと考え、ベースキャンプに指示を仰いでいた。
その頃、VCは強大な火力でもって樹木線の向こうから私たちに射撃を開始していた。私に選択の余地はなかったが、退却命令を出してどこか安全圏へと急がねばならなかった。私たちは別の防衛線で身構え夜を待ったが、その間チュイエンはとても落ち着いていた。メサは私たちの助けになることを期待して、最後に確認できていた座標に迫撃砲を向け、樹木線内に数発の砲撃を加えた。
私たちは砲弾の炸裂を離れた場所で見守り、VCが私たちの進路に近づかないよう、待ち伏せ状態で夜を過ごした。

翌日、FOBのメサは、無線機が細工され周波数が間違ったチャンネルに合わせられているのに気がついた。
後にチュイエンが二重スパイであることが暴かれるまで、私は彼に対して疑いを持たなかった。今となっては明らかだが、チュイエンが火力支援を妨害するために無線機のスイッチに細工し、ここぞという時に彼の銃が「弾詰まり」をおこしたのも樹木線の向こうの仲間を撃つのを避けるためだったのだ。
待ち伏せ中、チュイエンはいつでも私を殺して逃げることができたが、その時彼は私たちを利用していたし、たかだか一名のアメリカ兵を抹殺することもしなかった。
マイクが後に私に語ったところによると、彼の情報提供者曰く、私たちが襲撃したのはモク・ホア攻撃に向かっていた重火器小隊の先頭集団だった。私はそれを聞いて多少の満足を覚えたのだった。

最終的に、この物語には今日においても依然として未解決な事項が沢山ある。
チュイエンはガンマ作戦の工作員として採用されたが、後に偵察チームがカンボジアで活動中、彼とNVA士官が一緒に写っている写真乾板を発見したため二重スパイであることが確認された。
チュイエンはその後、チームメイトのロバート・マラスコに殺害された。
CIA作戦分野への初動捜査は鈍いものだった。ある調査官は処刑は容認できるものではないとしつつも、それが最良の解決法だったと言った。CIA高官もまた、処刑は好ましい選択だったとの見解を示した。
これは特殊部隊は極端な偏見のもとにチュイエンを処刑できたという印象を与えた。
計画が立案され、チュイエンはマラスコと供にニャチャンに早急に送られた。報告書は、チュイエンは投薬の上に尋問され、結局殺害されたとしている。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
NVAと共に写っているとされた写真。比較のためにチュイエンの顔写真が貼られている。

チュイエン消失を説明するために、彼は特殊偵察任務中に未帰還となったというカバーストーリーが作られた。
報告書では、その間アルヴィン・スミス(ペーター・サンズ)はチュイエンは殺害されていて、自らの命も危ういのではと動揺していたとしている。ある者は、スミスが部隊は狂った殺人集団だと述べていたと証言している。スミスはCIAに暗殺があったことを報告し、事件が公になると、CIAは突如として「殺すな(Don't Kill)」というメモを探し出してきた。彼らが責任から逃れようとしているのは明白だった。
マラスコとロー大佐の他、6名の士官が殺人と殺人教唆による共謀の罪で訴追された。スミスも逮捕され、彼は刑事免責を要求した。

この件を受けたソ連は、グリーン・ベレーは世界の平穏を踏みにじり、略奪と破壊を厭わない堕落した精神性の組織であると言いたい放題に主張した。モスクワ放送局はグリーン・ベレーにとって農民、女性、子供、老人を無慈悲に殺害することは当たり前のことだと主張した。
ソ連は北ベトナム共産主義政権の影の支援者であったから、恐ろしい敵である米国特殊部隊の評価を落とす機会を得たわけである。

スミス軍曹に公正を期して挙げると、一部裏切り行為と糾弾された、彼の未亡人であるリサ・M・スミス筆による「Faithful Devotion」がレイダー・パブリッシング出版から刊行されている。ジェフ・ステインによる、綿密かつ公正な調査に基づく「A MURDER IN WARTIME-The untold spy story that changed the course of the Vietnam war」もある。

「Faithful Devotion」のスミスの回想では私の体験にも触れている。スミスはモク・ホアへの迫撃砲攻撃に関するチュイエンの情報収集と関連づけている。
チュイエンの事件当時、モク・ホア侵攻VC部隊との接敵は、私のアンブッシュ・パトロールで発生したのが唯一であり、スミスの回想の初めにも件の出来事が触れられている。

「Faithful Devotion」第5章66ページから引用

「モク・ホア基地は、しばしばVCによる迫撃砲やロケットによる攻撃を受けており、これらの攻撃は実に効果的に、深刻な被害を引き起こしていた。この類の集中砲火は大抵の場合、VCの陸戦攻撃に先行して行われ、故に私を恐怖させるのにも成功していた。
ある朝(お手伝いのベトナム人と彼女の赤ちゃんの娘が殺された攻撃の直後だった)、私はモク・ホアにおけるVC作戦にチュイエンを選定した。その時点で私はチュイエンを筆頭工作員として採用していて、ベトナムにおける如何なる情報収集にも関わることにはなっていなかったが、私はこの「家掃除の雑用」が道理を外れるものだとは考えなかった。

計画では、ベトコンがモク・ホアへの次回攻撃に、いつ何処から出撃するのか、チュイエンが発生を試みることになっていた。
もし彼らの攻撃サイトがThan Triに近い場合、A-414のマーティン(マラスコ)と数名のグリーン・ベレーが待ち伏せをかけ、モク・ホア近くに予定されているようであれば、私とチコを含む数名のヌン族で奪取することになっていた。
私はこの計画をマーティンに説明し、彼は熱狂的に賛同した。
私の考えでは、この計画が達成されるまでには、多数回の「追跡」が必要となるはずだったが、蓋を開ければ、チュイエンは目標を受けた直後に、次回攻撃の時間と座標の情報を提供してきた。
チュイエンの指定した時点での攻撃サイトはマーティン受け持ちの位置に近く、そこではVCが攻撃準備を開始していた。
マーティンのチームがVCを皆殺しにした翌日、彼はモク・ホアに訪れ、待ち伏せの詳細を有頂天になって私とチュイエンに説明した。」

引用終わり

周知の通り、この件に関して私の述べた詳細は上に書いた通りであるが、いくつかの問題がある。スミスが述べた、マーティン(マラスコ)が翌日に彼とチュイエンに説明したということを私は理解できなかった。
マラスコ個人は、この待ち伏せ作戦には参加していなかった。彼はAチーム及びBチームの司令官からの認可を受けずに、片務的に戦闘作戦を指揮することを許されていなかった。
マラスコによれば、彼はこの件に関連してスミスとチュイエンに会ったことはないという。その上、私と共にいた、捜査が及ぶ以前のチュイエンは、外に出ることを決して許されていなかった。
この待ち伏せ作戦は明らかにAチームの通常の作戦手順に基づき、チュイエンの工作員登用以前に生じたものであり、チュイエンの役割は単に通訳だった。
スミスの回想は、この作戦がチュイエンの収集した情報に紐づけられたスミスの作戦の一つであったように思わせる。
この作戦はスミスにチュイエンの忠誠心を確信させた、唯一最大のインシデントになり得るし、スミスは後に、誤った記憶を理由に事件に関連付けられたとして、或いは彼のチュイエンへの任命責任に対する告発を払拭するためにマラスコを起訴した。

更に加えて「Faithful Devotion」内のスミスの回想によれば、他の報告書がチュイエンをスパイだと認定した時点で、有罪の証拠となったチュイエンとVC士官の写真が既に手元にあったと言う。
その報告書は私の兄貴分であるマイクによるもので、彼はチュイエンの立場にとても苦慮していて、私が知ることを許可されている範囲内で、私といくらかの懸念事項を共有していた。
私はチュイエンの連絡役(女性工作員だった)について突如として知ることになったが、これはマイクが報告を上げた後だったのは確かだ。

第5章78ページ、スミスによる記述から引用

「翌朝、分遣隊防諜部の会議が開かれた。その時の会議で、B57分遣隊司令官のクリュー少佐がチュイエン・タイ・カックはVCの工作員であったと報告した。この報告元は、B57分遣隊網から分離したA分遣隊情報網所属の補佐担当官軍曹(名前は控えさせて頂く)であり、彼は上官が休暇中にモク・ホアで作戦に当たっていた。
報告書はS5の通訳はモク・ホアに存在する女性と活動する、VCの工作員であると述べていた。」

引用終わり

とても似通った報告が書籍「A MURDER IN WARTIME」において記録されていて、特にA-414を情報源として定めている。マイクの報告書はマラスコが短期休暇中に席を外していた時に作成された。私の知るところでは、その報告書は信用のおける工作員の目撃証言に基づいていた。恐らくこれが、チュイエンにとって命取りになるものだったと私は思う。
後にマイクは、チュイエンの正体は確実に明らかになると打ち明け、私はこの状況がどう処理されるだろうかと尋ねた。彼はチュイエンには特殊作戦への待機命令が出され、そして恐らく逮捕されるだろうと語った。
チュイエンの妻と兄弟によれば、彼は尋問官からの出頭命令を受け、なぜ現実性がないにも関わらず、グリーン・ベレーの特殊作戦に就くことを拒否したのか詰問された。彼はこれに動揺して妻のラン・キム・リェンに、もし家に戻らなかったら自分の事を調べて欲しいと言った。彼が最後に目撃されたのは、追加の尋問のため出かけた、(69年)6月13日のことだった。
この説明は他の報告とは合致しないものの、時系列は正確である。
思うにチュイエンは、数々の機密性の高い立場に充てがわれていたし、指導責任者の信用を得られるだろうと踏んで尋問に従っていたのだろう。勿論それは裏目に出たのだが。

チュイエンが消されると、スミスは自らも同じ運命を辿るのではと疑い始めた。彼は殺害に反対していた唯一の人間であり、そしてまたモク・ホアでチュイエンと活動していた女とは別に、容疑者となっていた。
自分が「権力の中枢」メンバーの注目を集めたかもしれず、そしてその後、彼らのうちの一人が、チュイエンの死により幕を下ろしたあのシナリオの様な、秘密の予行演習を立案していて、その実現性を検討したのではと想像するとスミスの疑惑はより一層募った。
スミスによれば、マラスコ(マーティン)は唯一信頼できる男だったが、彼がA-414に戻ってしまっていたため、話せる相手がいなかったという。スミスはニャチャンのCIA本部からの保護を求めた。彼は事実を報告する事が一番得策だと信じていたが、これは決して公にするためではなかった。
彼はこの事件が内部で処理される事を期待していたが、ロー大佐がエイブラムス大将(68年6月からウエストモーランドの後任としてMACV司令官に就任。WWⅡでは優秀な戦車指揮官であり、現在M1エイブラムス主力戦車にその名前を残している)に事件について嘘をついてから、事態は更に複雑になってしまった。
エイブラムスは固い意志の持ち主として知られており、即座に彼らを活動停止にしたのだった。

士官たちはスミス殺害の策略を否定したが、スミスは彼らのうちの一人が「それを議論し、後に謀殺を決定した」と証言したと主張した。が、その結果として彼が殺されることにはならなかった。取調官は、士官たちは一度たりともその様な計画を立てなかったと結論づけた。
異説あるし、異論もある。

ステインの本、スミスの回想を補助に個人的な視点から、この出来事の時系列を再構築した。

1968年10月15日
アルヴィン・スミス、またの名をペーター・サンズが、モク・ホアのB-41の基地に配属される。サンズによれば、チュイエンが到着したのはその一週間後だった。チュイエンの配属はS5で、通訳の仕事が割り当てられた。二人は良き友達となった。

1969年1月
ロバート・マラスコ大尉、またの名をロバート・マーティンが、Thanh TriのA-414の基地にB-57ガンマ作戦の秘密諜報員として配属される。無線手「スコッティ」と補佐ケース・マネージャー「マイク」軍曹がほぼ同時期に着任する。

1969年2月2日
テリー・マッキントッシュ軍曹がThanh TriのA-414に配属される。69年2月19日、マッキントッシュ、12名の現地兵と共に待ち伏せ偵察中に敵と遭遇し銃撃戦となる。チュイエンは通訳として同行していた。チュイエンは応射せず、無線通信は遮断されており、直接火力支援の要請が妨げられた。メサ4等特技兵はFOB(前進作戦基地)よりAO(作戦地域)における曳光弾を観測する。彼は無線でマッキントッシュを呼び出せず、負傷もしくは死亡したと考え、最後に確認した座標に砲撃した。チュイエンは自身のVCへの反撃失敗を合理的理由を持って説明し、マッキントッシュは公式報告しなかった。AAR(アフター・アクション・レビュー)において、どういうわけか無線機の周波数が誤って設定されていた事が判明した。スミスがThanh Triにチュイエンを貸し出したのは数日間のことだ。スミスが彼の回想の中で言及した待ち伏せは、これと同じものであるとするのが論理的結論である。スミスがチュイエンが収集した情報に敵情を求め、それをチュイエンの合衆国に対する忠誠心として見ていたのは明らかだ。しかしながら、彼の報告書は不確かな記憶であろうとなかろうと、如何なる根拠に対しても尾ひれがつけられている矛盾を示している。マラスコはスミスの関わりを知らなかったと否定しているし、作戦はチュイエンが工作員として公式採用される以前のもので、Aチームの通常手順によるものだったように思える。

1969年3月3日
スミスはチュイエン・タイ・カックの氏名照会を要求し、数日後「記録なし」の返答が来た。スミスはチュイエンをB-57分遣隊に採用する意を申告した。公式認可は延長された。

1969年3月8日
チュイエンは指紋採取、写真撮影をして、工作員番号SF7-166として登録された。注:スミスはポリグラフを施行せず、追加の調査も行わなかった。マラスコは、チュイエンには雇用記録が見当たらないにも関わらず、流暢な英語を喋るという事実に困惑した。

1969年3月
月の半ば頃。トム・パウエル二等軍曹とマッキントッシュ軍曹、国境パトロール中にVCと友軍との三つ巴の待ち伏せ作戦において戦闘状態になる。マラスコがチュイエンを厳重な管理下に置いていたことにより、通訳は同行していなかった。また彼はどうあってもチュイエンを部隊と共に派遣することはなかった。

1969年4月
月の半ば頃。マラスコはスミスをニャチャンに転任させ、チュイエンをモク・ホアでの以前の仕事である民事作戦部へ戻すのは保留にした。注:マラスコのチュイエンへの疑念は、これを晴らす明確な証拠と認可が無い限り、チュイエンはThanh Triに戻ることは出来ないであろう事を示していた。マラスコはチュイエンの給与責任者であり、彼を工作員のままにさせておくのを拒否した。ステインはマラスコがニャチャンに、スミスの再配置の許可を求めて無線連絡したことを確かめた。

1969年5月
ロバート・リヒャルト大佐が第5特殊部隊群司令官に就任する。
いつの時点でチュイエンがモク・ホアでの仕事を辞めたのかは不明だ。彼はサイゴンの家族の元に帰ったが、これはスミスがニャチャンに移された後のことのようだ。

1969年5月10日
スミスはチュイエンが写真に写っているのを確認した。

1969年5月19日頃

マラスコが急用による休暇でアメリカ本土へ。マイクがB-57チームとは別の、Thanh Triのローカルな情報提供者より報告を受ける。彼の報告には、Thanh Triで働いている通訳が特殊部隊の人員と業務について、踏み入った質問をしていたとあった。また、その通訳者はVCのスパイであり、モク・ホアに女性協力者がいるという噂もあった。注:「Thanh Triで働いている」という部分は、その時にはチュイエンはモク・ホアにいたので過去の話だったと考えられる。マイクはマッキントッシュに報告書を確認させた。

1969年5月
最終週頃。緊急の休暇を取っていたマラスコがアメリカ本土から戻り、写真の男がチュイエンだと確認した。B-57はマイクの報告書の女性協力者に関して、マラスコに指示しなかった。

1969年6月4日
リヒャルトはAチームへの視察ツアーでベトナム中を飛び回るのを終えた。リヒャルトが視察を始めA-414を訪れた時点では、チュイエンの正体がNVAであると明らかになっておらず、元々彼の視察訪問はチュイエンに関していなかった。

1969年6月9日
チュイエンを尋問にかける計画が立てられた。スミスは新たな秘密作戦を装い、チュイエンを連れて行くことを要求した。マイクの直近の報告書が懸念を強める理由となった。

1969年6月12から17日
尋問開始。
チュイエンがポリグラフに引っかかる。
チュイエンはファンがマラスコの第一工作員だと認める(重大な機密保持違反)
チュイエンは、スミスがA-414に滞在する際には自分を連れていったと主張した。
写真は自分ではないと否定した。
モク・ホアでの女性との接触を否定した。しかしながら、スミスは回想において、チュイエンが特定の女性と関係を持っていたことについて書いている。
チュイエンはThanh Triで通訳として働いていたことを確認した。
チュイエンは疲労により衰弱して、「間抜けな」アメリカ人と呪った。NVAに戦争で負けるだろうと発言する。
スミスは「チュイエンを転向させる」ためのもう一度のチャンスを嘆願した。

1969年6月18日
秘密会議でチュイエンを処刑する計画がでっち上げられる。スミスは反対する。

1969年6月20日
チュイエンが処刑される。

1969年6月21日
CIAは、殺人は解決法にはならず、騒ぎになる高い可能性があるというテレックスを送ってきた。B-41のチームはチュイエンがカンボジア内の作戦で殺害されたというカバーストーリーを与えた。

1969年6月29日
スミスは自らも保険のために、チュイエンと同じようなやり方で排除されるかもしれないと恐怖した。

1969年7月2日頃
スミスは処刑を報告し、ニャチャンのCIAオフィスからの保護を求めた。

1969年7月14日
マラスコとB-57チームがロー大佐と共に逮捕される。

1969年頃。情報では500名のNVAがThanh TriのAO(作戦地域)を通過途中だった。有効稼働中の全ての人員、Aチーム要員とCIDGは待ち伏せに対して警戒態勢についていた。敵は実体がないかのようだった。夜半、「スプーキー(ダグラスAC-47ガンシップ)」がAOのVCをコテンパンにする。部隊の仲間たちは、その様子を基地の屋根の上から眺めていた。

1969年7月20日
ケン・フェイシー中佐が、チュイエン排除を命じたのはロー大佐であると認める。

1969年7月20日頃
Thanh TriのA-414基地に迫撃砲による攻撃。チュイエンの失踪に対する報復と思われる。

1969年7月21日

ロー、マラスコ及び他の士官たちがロン・ビン刑務所に移送される。※ロン・ビン刑務所はアメリカ陸軍軍刑務所。ドン・ナイ省にあった米陸軍最大級の基地で、USARV司令部でもあったロン・ビン駐屯地にあった。

1969年7月23日
エディ・ハンビー一等軍曹は、マッキントッシュ三等軍曹の本国帰還を妨げる第一行程であるモク・ホアに、ボートで彼を護送した。ハンビーは、秘密作戦に関するナレッジを否定することをマッキントッシュに助言した。彼は秘密作戦への知識の否定を宣誓する書類に署名し、軍事情報部から解放された。

1969年7月26日頃
二度目の迫撃砲攻撃が基地に加えられた。マッキントッシュ三等軍曹は出国のためにニャチャンにいた。ハンビー一等軍曹によると、4名のCIDG兵士、パパ-サン(※ママ-サンの男性版)とディウィ・ディエムの全員が殺され、基地と増築した構造物が重大な損害を受けた。

1969年9月29日
合衆国陸軍が特殊部隊チームに対する全ての告訴を取り下げる。CIAは証言するつもりはなく、公平な裁判は不可能だ。ホワイトハウスはニクソン大統領が、殺人罪の告訴をやめさせる決定の打ち立てに関わったことを認める。

軍事情報部が私に質問した際、私はA-414以外の如何なる秘密、違法作戦も知り得なかった旨を宣誓する書類にサインした。その時点では、私はマラスコたちが逮捕されていることに気づいておらず、彼らがThanh Triから引き上げさせられた事だけを知っていた。私は、彼らが私に望んでいた事をした...家に帰り口をつぐんだのだ。

ニクソン大統領が関わった後、結局、全ての告訴は取り下げられ、グリーン・ベレー事件は歴史に名を残し、ダニエル・エルスバーグの論によれば、ペンタゴンペーパー暴露を引き起こすこととなった。マラスコは将校を辞任し、ロー大佐は辞職に追い込まれた。他のは国内勤務に再配属された。

この出来事は、私を含む当事者全員にとって悲劇であったし、正直なところ、私はマラスコや他の告発を受けた人々に敬意を表する。
彼らは命令を受けて行動する兵士であり、それ以上の選択肢はない。彼らの行動は米国兵士と全ての友軍兵士の命を救うためのものだったた。誰も殺人を望んだわけではない。仕事が彼らに下されたのだ。倫理問題は未だに未解決であるが、しかし、一人の危険な裏切り者の敵の排除により米国兵士とベトナム人協力者の生命を保護せよという命令の下、この男達は難しい決定を下したのだ

戦争は決して気持ちの良いものではない、そしてベトコンは残虐な圧制者だった。悪魔をも凌ぐ恐ろしい戦略を用いた。村落を襲い、女を強姦し、男を殺し、子供を盗もうとした。これが我々がベトナムで対峙した真の敵であり、時に厳しく対応しなければならなかった。マラスコは戦争犯罪で告訴された唯一の人間ではなかったし、彼が最後にもならないだろう。今回のような話は無数に存在するし、今後、新たにいくらでもに起こりうるべく待ち受けている。
戦争である限り、兵士が、無辜の市民が、敵が、人々が死にゆくことになる。文民政府がアメリカの兵隊を戦闘に送り込んだならば、彼らは兵士に敵の殺害を期待せねばならないし、仕事をやり遂げるよう彼らに任せなければならない。

まとめると、戦争は兵士個々人より大きく、そして私は、そこに責務がある事を信奉しているが、しかし、兵士は即断即決をしなければならない。時にそれは、完璧とは程遠い状況で殺生することを意味する。
ペンタゴンペーパーによる矢継ぎ早の猛批判を浴び、更には合衆国撤退後に南ベトナムが北ベトナムの手に落ちたにも関わらず、合衆駐留軍により多くの善がなされた。命が救われ、これまで、無力で無辜の無駄に殺された人々のために戦い、そして命を落としたような兵士がなくなった。彼らは周りの人々を守るため自らを捧げたのだ。そうして戦争に失われる、過去、現在、未来の全てのアメリカの兵士に私は敬意を表する。彼らは自由への闘争の先鋒なのだ。

終わり

A414在籍者のリスト
チュイエンの事件が起こった時期と重なる、69年6月~7月。A-414のページから。

Team members Jan69-July69
 
Cpt. Louis Geneseo (C0) KIA
Capt. Albert Kittredge (CO)
1Lt. Robert Brucker (C.A.)
1Lt. William Williams II (XO)
MSG Nat Fralia (Team Sergeant)
SFC Eddie Hamby (Intel)
SFC Frank Midlil (Hvy Weapons)
SSG Thomas E. Powell, DSC
Sgt. Terry McIntosh (Commo)
Sp/4 David Hagen (Commo)
Sp/5 Philip Johnson
SSG Peter Noone (Medic)
Sp/4 Adolph Mesa (Medic)
SSG Ennis Brewer (Light Wpns)
Sgt. Dave Pharo (Commo) (Reassigned)

Military Intelligence
(Project Gamma)
Capt. Robert Marasco - Cmdr
(aka Capt. Robert Martin)
SSG. Sydney Jensen (Communications)
SGT. Norman Olivarez (Case Manager)

マッキントッシュ三等軍曹とメサ特技兵、ハンビー一等軍曹の名前が確認できる。A414に配置はされているが、B57は軍事情報要員として区別されている。ジェンセン二等軍曹は「スコッティ」、オリバレス三等軍曹は「マイク」かもしれない。
短いものではあるが、ピンク色で強調した、ウィリアム・ウィリアムス二世中尉の回想を見つけたので下に記す。

ウィル・ウィリアムス中尉はThanh Triの村にほど近い、A-414特殊部隊キャンプに在籍していた。キャンプはサイゴン西部の国境地帯に位置しており、そこはカンボジア側に食い込む様な国境線の形から「ザ・フィンガー」と呼ばれていた。キャンプには12名ほどのアメリカ人特殊部隊隊員が在籍しており「ディフェンダーズ・オブ・フィンガー」として知られていた。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

このプラークは、タイで購入した木彫りの手と合わせて、ウィル・ウィリアムスのベトナム滞在中に作られた。ベトナム領を黄色、カンボジア領を赤色で塗り分け、基地が位置する「ザ・フィンガー」を表現していた。
三方をカンボジアに隣接しているせいで、頻繁にカンボジアを根城にしているベトコンによる砲撃を受けた。砲撃が始まると、誰かが「シルバー・スター・タワー」と呼ばれる(なぜそんなふうに呼ぶかと言えば、砲火に晒されながら塔に登ろうものなら、それは銀星章モノだからだ)監視鉄塔のてっぺんまで、砲撃位置割り出しのために駆け上がらなければならなかった。

ガンマ作戦
プロジェクト・ガンマは作戦を指揮した陸軍特殊部隊B分遣隊から、B57としても知られている。1967年の終わり頃から、カンボジア国内での秘密地上情報収集活動を開始したとされている。500名近い現地要員と南ベトナムに9つの拠点を持ち、民事作戦と心理戦部隊をカバーしていた。ベトナムにおいて最も優秀な戦闘情報の収集部隊であり、カンボジアで65%、南ベトナムでは75%の有効な情報を提供していた。というのはエイブラムス将軍の幕僚の情報主任による評価であった。

真偽の程は定かではないが、部隊はサイゴンのCIA支局長からCIAニャチャン分室を通して指示を受け取っていた。これは彼らは軍人であり、基本的に第5特殊部隊部隊群の指揮下であったからが、ロー大佐は厳格な"need to know"の原則のもと、部隊の動向については殆ど蚊帳の外に置かれていた。事件後にロー大佐が第5特殊部隊群司令官の任に就いてから、数週間しか経っていなかったのだ。

ワシントンの政策担当者はカンボジアとラオスの「独立性」「中立」を保証しており、両国内に戦闘部隊が立ち入ることは禁じられており、特にカンボジアは「聖域」とされていた。ただ唯一、秘密の情報収集部隊のみが潜入を許されていた。勿論これは北ベトナムにとって好都合であり、彼らは師団規模の兵力を集結させ国境を越え南を攻撃した。そして悠々と無敵の基地カンボジアに帰り、再編成、再装備をした。

1969年初頭、CIAとガンマは、多くのチームと工作員が消息を絶っていることを憂慮しており、敵スパイの侵入を確信していた。そんな中、ある写真により、チュー・バン・タイ・カック(akaタイ・カック・チュイエン)に北ベトナム情報機関関係者との繋がりありという疑惑が浮上した。その写真はカンボジアに潜入していた特殊部隊偵察チームが、北ベトナム軍基地から盗み出した書類とフィルムの中から発見された。

タイ・カック・チュイエンの指導責任者であるアーヴィン・スミス三等軍曹(マッキントッシュ氏によればCIA要員だったようだ)は特殊部隊隊員ではなかったが、軍事情報(MI)のスペシャリストとして部隊に参加していた。スミス軍曹が写真をチュイエンだと確認し、チュイエンはポリグラフを含む尋問にかけられた。

10日後、ソディウムペントタールの使用を含む、強力な「改良」尋問により、チュイエンが情報収集チームについてを北ベトナムに漏らしていたことが判明した。また、北ベトナムだけでなく南ベトナム方面にも情報を流していたという説もある。もし事実なら、彼はある意味三重スパイだったとも言える。
※ソディウムペントタール。チオペンタールナトリウムの別名。バルビツール酸系麻酔薬の一種で鎮静剤や睡眠薬として使用される。余談だが、マリリン・モンローの死因もバルビツール酸系睡眠薬のペントバルビタールナトリウムの過剰摂取とされている。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
「お熱いのがお好き」とは言っても拷問はカンベンだ。

斯してチュイエンは「消される」ことになったが、その命令の確実な出どころははっきりとはしない。こういった物は回りくどい手続きを経て、責任の所在がうやむやにされて現場に下りてくるのかもしれない。
一般的に信じられているところでは、CIAサイゴン支局からニャチャン分室を経て第5特殊部隊へともたらされたとされている。その際に用いられた文言"terminate the agent with extreme prejudice"は一躍有名になり、スパイ小説や映画などの流行語となった。
※フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」が有名で、主人公のウィラード大尉がカーツ大佐の暗殺を指示される場面で"terminate with extreme prejudice"という台詞がある。また、コッポラ監督はカーツ大佐のキャラクター作りの際にロー大佐を参考の一助にしたようである。
翻訳についてだが、terminateは「終わらせる」という動詞、extremeは「極度の」という意味の形容詞、prejudiceは「偏見」「不利益」を表す名詞で、直訳すれば「極度の不利益とともに(工作員)を抹消せよ」だが、それらしくすれば「工作員の殺害をもって危殆を解消せよ」とするのがこの一文から読み取れる第一印象となるだろう。
またextreme prejudiceは「極度の偏見」とも取れるが、これを「一切の予断なく」として「疑念を持たずに、ただ工作員を排除せよ」ともすることも出来るかもしれない。
また、法律用語でdismiss〜with prejudiceというものがある。これは、申し立てを確定力のある決定として退けるという意味である。やはりこのことから、一切の疑念なく、審理の余地なく、といった意味が読み取れる。
これだけ挙げただけで相当な灰色会話なのが分かると思う。恐らく「極度の不利益とともに」と「極度の偏見をもって」の両方の意味を含んでいるのではなかろうか。
地獄の黙示録の台詞については色々と考察があるようだが、個人的には、元ネタになった文章の内容と、役者の台詞回しが"terminate..."と少し間をあけているのと、目的語が欠落していることから"terminate (Colonel Kurtz) with extreme prejudice"とするのが本来的な意味だと考える。つまり「大佐を消してリスクを断て」といった感じだが、映画の台詞としてはスマートでないので「始末しろ」でいいだろう...笑

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
terminate...with extreme prejudice(ネットリ

チュイエンは薬物投与の上、鎖で巻かれ船に乗せられ、ニャチャン湾から南シナ海深深度域の洋上まで連れていかれ、そこでマラスコ大尉に二発の弾丸を撃ち込まれた。彼の遺体はマラスコ大尉と部下により海に沈められた。
チュイエンの失踪を説明するため、カンボジアでの作戦中に行方不明になったというカバーストーリーが作られた。マッキントッシュ氏によればこのカバーストーリーはB-41によるものだが、実際どこからの指示だったかはっきりしない。CIAからのよるものという説もある。
しかしながら、チュイエンの指導責任者であるスミス軍曹が、自身の身の安全を危惧してCIAのニャチャン分室に保護を求め逃げ込んだことにより、全てが崩壊することとなる。
話はすぐに広がり、エイブラムス将軍は無防備な安全の担保されていない回線を用いてロー大佐に状況の説明を求めた。それもあってか、ロー大佐は将軍に詰め寄られ、例のカバーストーリーを伝えてしまった。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
ロン・ビン・ジェイル。LBJ牧場とかロン・ビン営巣、あるいは単にLBJと呼ばれた。ドン・ナイ省のロン・ビン駐屯地にあった軍拘置所。

エイブラムス将軍は空挺歩兵、とりわけ特殊部隊を好んでおらず(SFGAのAはAirborneの意で、空挺資格はスペシャル・フォースに必須の技能である)、直ぐにロー大佐を含む事件の関係者を逮捕して、ロン・ビン刑務所に収監してしまった。

「彼らを調べ上げてクズどもを一掃しろ!」というのはエイブラムス将軍の言葉である。
彼の情報主任の言葉によれば、この常識的で、博学、洗練された男は長年にわたる、強く、そしてかなり異様な偏見を胸に秘めていた」「一例を挙げれば、彼はハーフバック、フットボールのハーフバックを嫌っていた...また他に、異様かつ相当深刻な偏見でもって、空挺部隊を嫌っていた」ということである。

しかし、これはエイブラムス将軍に限ったことではなく、軍部の多くが特殊部隊を嫌っていた。ナショナル・ジオグラフィックやルック・マガジン、バリー・サドラーの流行によって集まった、この比較的新しい部隊への注目は、高級将校との間に間違った摩擦を引き起こしていた。多くの将校は、正規軍の増強を差し置いて、最優秀下士官が特殊部隊を選択するという事態の拡大を嫌っていた。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件
エイブラムス将軍

特殊部隊を専門で扱っていた記者達が、この逮捕劇を知ると事件は大々的に世間に公表された。殆どのアメリカ人はロー大佐と特殊部隊隊員達はCIAの作戦のスケープゴートにされたのだと感じていたが、ガンマ情報チームが入手したチュイエンとNVA士官が写った写真を弁護側が提示すると、さらにその傾向は強まった。世間は、彼らの任務がなんだったのか、なぜ彼らが敵の殺害の実行者として選ばれたのかを知りたがった。

エイブラムス将軍が統一軍法32条に則り審問請求し、取り調べが行われたため、大騒ぎになった。弁護側は軍事裁判に精通した民間弁護士、ヘンリー・ロスブラットを雇った。彼は直ぐにCIAとエイブラムス将軍に対して宣誓した。
※審問請求。Uniform Code of Military Justice section Ⅶ Article 32=統一軍事裁判法7項32条。7項は「Trial Procedure(公判手続き)」で、被疑者が事件を否認した場合、審問官の任命が行われ、32条に基づき「Article 32 Investigation(32条調査)」が行われる。この目的は証拠を基にしない不適法な起訴の防止であり、被疑者が審問官に証拠を提示することができる場となる。被疑者は弁護人立会い権、反対尋問権などが認められ、検察官の立会いは不必要である。そのため「Investigation」ではなく「Article 32 Hearing(32条審問)」と表現される場合も多いようだ。予備審問と訳されることもあるが、裁判官の下に原告被告双方が論争するそれとは違い、連邦法における大陪審(軍法には大陪審手続きは存在しない)に近いものと考えられる。しかし、大陪審においては
証拠開示は検察官による限られたものであり、その点、訴追側に広く証拠開示義務を認める32条審問は、より被疑者の権利に寄り添ったものとも言える。

また弁護側は証拠不十分を理由に訴訟の棄却に動いた。そう、遺体がなかったのだ。エイブラムス将軍は海軍をニャチャン湾に駆り出し、ダイバーを使って底さらいして遺体を探そうとした。エイブラムス将軍はありとあらゆる組織を使って弁護側を否定したが、マスコミの場においては大負けしていた。これは彼の偏見をさらに強めることとなった。

捜索により遺体が見つからなかったため、原告側は被疑者のうちの一人、エドワード・ボイル上級准尉に殺人罪の免責を認める代わりに証言を求めた。しかしながらボイルは、免責、さらには証言も拒否した。

その間、ある特殊部隊偵察チームがカンボジアへ潜入した。チームは潜入時にNVAに捕捉され、追跡されたが追っ手を巻き、その後二名の敵を殺害した。敵兵のうち一人は中国人上級情報将校とみられ、彼の遺体からは南ベトナムと米軍内に潜り込んでいるNVA工作員の名簿入りケースが発見された。名簿の内、最も注目すべきは、殺された「二重スパイ」チュイエンの名前だった。こうしてチュイエンの有罪は疑ないものとなった。

ちなみに、後にロー大佐の後任となる、チャールズ・M・シンプソン大佐はロー大佐の親友であり、サイゴンに向かいあらゆる手助けを試みた。それを知ったエイブラムス将軍は更に激怒し「そのクソ野郎に今すぐベトナムから出て行け、さもないとお友達の次に牢屋にぶち込まれるのはお前だと伝えろ」と言ったとされている。

結局、エイブラムス将軍とCIAは証言を拒否したため、ロー大佐と他に対しての告発を取り下げる旨が、スタンリー・リーザー合衆国陸軍長官より発表された。ロー大佐は第5特殊部隊群司令官への復帰を求めたが否定された。こうしてロー大佐のキャリアは終わりを迎え、彼は即座に除隊申請の書類を提出した。やがて他の者も同様に軍隊を去った。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

告訴が取り下げられ釈放されてビエン・ホア空軍基地から帰国の途につく面々。左から右に、バッヂ・ウィリアムス大尉、レランド・ブラムリー大尉、エドワード・ボイル准尉、ロバート・マラスコ大尉。1969年9月30日。

プロジェクト・Γ(ガンマ) 殺人事件

1969年10月1日、カリフォルニア州フェアフィールド トラヴィス空軍基地で開かれた記者会見。

ロー大佐は事件が起こる以前、特殊部隊内において希望の星だった。彼の前途は素晴らしく、将官になるに相応しい優れた人材と見なされていたが、その出世街道は台無しになった。プロジェクト・ガンマは1970年3月に停止された。
退役後、ロー大佐は直ぐにメイン州におけるアウトワード・バウンド・プログラムに職を得て、2013年10月、89歳の誕生日の二週間前に亡くなるまで勤め上げた。彼は事件の詳細に関するインタビューや執筆は拒否したが、ベトナムにおける特殊部隊について本の執筆を続けていた。しかし、出版社は「Green Beret Affair (グリーン・ベレー事件)」の全容について論じることを求めたため、存命中に公表されることはなかった。最終的に友人のシンプソンによって「Green Berets, The First Thirty Years」として公開された。
※アウトワード・バウンド。1941年、イギリス発祥の青少年育成を主目的とした、野外活動、サバイバル訓練を行う短期スクール。世界33ヵ国220箇所以上に拠点を構え、日本にも公益財団法人 日本アウトワード・バウンド協会が存在する。

ロー大佐は事件を利用して経済的、あるいは他の如何なる利益を得ないよう務め、イラク戦争やアフガニスタン戦争、他の不評に終わった戦争の退役兵と共に働いた。

参考資料
https://sites.google.com/site/specialforcesa414/?tmpl=%2Fsystem%2Fapp%2Ftemplates%2Fprint%2F&showPrintDialog=1
A-414のページ
http://www.specialforceshistory.info/vietnam/buon-enao.html
http://www.glanmore.org/BuonEnao/BuonEnao.html
ブオン・エナオ計画のページ
https://www.chinditslongcloth1943.com/sir-robert-thompson.html
ロバート・トンプソンのページ
https://thenewsrep.com/43458/operation-tailwind-pt-1-sog-warriors-prepare-aid-cia-op-deep-inside-laos/
テイルウィンド作戦のページ
https://www.jfklibrary.org/Research/Research-Aids/Ready-Reference/National-Security-Memoranda.aspx
ケネディ政権時代のNSAMマイクロフィルムが見られるページ
http://www.macvsog.cc/special_projects.htm
プロジェクト・デルタ、オメガ、シグマの概要ページ
http://peteralanlloyd.com/a-covert-helicopter-mission-into-cambodia-goes-wrong-during-the-vietnam-war/
第20特殊作戦航空隊の概要ページ
http://documents.theblackvault.com/documents/jfk/NARA-Oct2017/ARRB/CRHODES/WP-DOCS/GUNNAID.WPD.pdf
JFK暗殺調査資料
http://nktlittlesaigon.blogspot.com/2014/07/oan-lien-lac-va-chien-oan-xung-kich.html
南ベトナム特殊作戦部隊の歴史
https://www.specialoperations.org/soa/wp-content/uploads/2015/11/MACVSOG-PUC.pdf
MACV SOG 部隊殊勲賞
https://army.togetherweserved.com/army/servlet/tws.webapp.WebApp?cmd=PublicUnitProfile&type=Unit&ID=1031
"together we served"見やすいページ。
http://www.sflistteamhouse.com/FOB/fobhist.htm
FOBの歴史
http://webdoc.sub.gwdg.de/ebook/p/2005/CMH_2/www.army.mil/cmh-pg/books/vietnam/90-23/90-23ac.htm
特殊部隊キャンプリスト
http://www.war-stories.com/the-green-beret-affair-terry-mcintosh-1969.htm
グリーン・ベレー事件 マッキントッシュ軍曹の回顧録
http://www.sfa-72.com/SFA_4Q2013Drop_FeaturedArticle.pdf
グリーン・ベレー殺人事件のミステリー
http://smallwarsjournal.com/documents/cidgprogram.pdf
VDP CIDG計画変遷
https://history.army.mil/html/books/090/90-23-1/CMH_Pub_90-23-1.pdf
合衆国陸軍特殊部隊ベトナム研究 陸軍省
http://www.ptfnasty.com/ptfmacvsog.html
ナスティ級哨戒艇のページ。SOGの歴史にも触れている。
http://historynkt.blogspot.com/2010/07/early-covert-action-on-ho-chi-minh.html
第1観測隊のページ
http://www.projectdelta.net/history.htm
B52プロジェクト・デルタのページ
http://twolftfeet.com/macvsog.html
SOGとB52の資料
http://sogvietnam.blogspot.com/2010/07/republic-of-vietnam-special-operation.html?m=1
NKTとSOG。LDNNも
http://ngothelinh.tripod.com/missions.html
NKTとSOG。Biet Hai(シーコマンド)も
http://www.specialforcesbooks.com/SFOB.htm
特殊部隊作戦基地リスト。凄く詳しい
http://www.macvsog.cc/sog_training.htm
B53のページ
http://1-14th.com/Vietnam/Archives/Division%20Reports/1967-01-31%20Qtr%20Op%20Report%20-%20Lessons%20-%201st%20Special%20Forces%20-%20390959%20d8546.pdf
Operational Report - Lessons Learned, 5th Special Forces Group (Airborne), 1st Special Forces Period Ending 31 JANUARY 1967
http://www.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/500559.pdf
Operational Report - Lessons Learned, Headquarters, 5th Special Forces Group (Airborne), 1st Special Forces Period Ending 31 October 1968
https://www.scribd.com/document/81654812/Command-History-1972-1973-Volume-II
UNITED STATE MILITARY ASSISTANCE COMMAND, VIETNAM COMMAND HISTORY JANUARY 1972 - MARCH 1973 VOLUME Ⅱ


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Posted by ふらっととっぷ at 09:45│Comments(0)ベトナム戦争
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